ワカシャチ漫遊記「関ヶ原散策」 2012年4月1日(日)VOL.3

島津豊久碑(西軍)
島津豊久は当主であり叔父である義弘を救うため、
身代わりとなって討死しました。
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島津義弘陣跡(西軍)
西軍布陣地のほぼ中央に位置する島津義弘陣跡。
島津隊は鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。
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本多忠勝陣跡(東軍)
本多忠勝は、三方ヶ原・長篠の戦数々の功績をあげた。
関ヶ原の合戦では軍監として参戦し、松平・井伊隊が対戦していた
島津隊に向かって進撃し、西軍武将の切り崩しにも努める。
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東首塚・西首塚
当時、この地の領主であった竹中重門が、家康の命により、
合戦で戦死した兵士たちを東西2ヶ所に埋葬した首塚。
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登場人物
島津豊久
島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代の武将。
関ヶ原の戦いが起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣した。
しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から
戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。
やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、
退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めるが、豊久に撤兵を促されて、
結局義弘以下の島津隊は家康本陣を霞める形で伊勢街道方面に
撤退する(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において先陣を務めたが、
東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出し、
久も義弘の身代わり(捨て奸)となって討死した。

島津義弘
島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
島津氏の第17代当主。関ヶ原合戦後、薩摩に戻った義弘は、
敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する
武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で、全身全霊を傾けて家康との
和平交渉にあたる。ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた
井伊直政に依頼した。この選択は賭でもあったが、頼られた直政は誠心誠意、
徳川・島津の講和のために奔走している。また関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を
目のあたりにした福島正則の尽力もあったとも言われる。

本多忠勝
本多 忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
徳川氏の家臣。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。
忠勝系本多家宗家初代。徳川四天王(とくがわしてんのう)の一人。
徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の創業に功績を酒井忠次・
榊原康政・井伊直政らとあげる。

関ヶ原 おまけ
関ヶ原には関ヶ原の決戦のほかに壬申の乱
起きた舞台でもあります。
もう一つの“天下分け目の戦い”です。
壬申の乱を学ぶには不破関資料館に行くとよいです。
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