ワカシャチ漫遊記「愛知県田原市散策」2014年2月

2014年2月16日(日)
愛知県田原市を散策しました。
田原市は、愛知県南端、渥美半島にある市です。
名古屋市内からは約1.5時間のドライブです。
渥美半島の付け根部分を除くほとんどの部分を占め、
北は三河湾、南は太平洋に面している。
また、伊良湖水道を挟んで志摩半島と対峙している。
田原市域には縄文時代には人々が住んでいたことが知られ、
縄文晩期の遺跡吉胡貝塚・伊川津貝塚からは
多数の人骨が出土している。
田原市は、歴史、自然、偉人、食など見所満載です。
吉胡(よしご)貝塚
吉胡貝塚は縄文時代後末期・晩期(2500年前から3000年前)の
日本を代表する貝塚です。
大正11・12年、京都大学の清野謙次博士が発掘調査を実施。
300体を超える人骨を発見し、一躍有名となりました。
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天気もよく風も気持ちよかった。
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田原市博物館
田原市のの歴史は古く縄文時代に遡り、伊勢神宮領、渥美古窯、
戸田宗光の田原城築城までの歴史的な流れは、
市内に所在する遺跡等にその痕跡を見ることができます。
幕末の先覚者渡辺崋山は、田原藩の家老であり、
その功績は歴史上、美術史上高い評価を受けています。
博物館は田原城跡地の中にあります。
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渡辺崋山
渡辺 崋山は、江戸時代後期の武士、画家。
三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。
通称は登(のぼり)、諱は定静(さだやす)。
号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。
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★幼少期の崋山
崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支える。
★藩士の崋山
天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を
築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して
家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、
貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、
そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。
★画家・文人の崋山
元々崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、
それが大きく花開く。
代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」などがある。
また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し、
文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるとともに、
当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。
★蛮社の獄
蘭学の進出を取り締まり、蘭学者弾圧の時期を狙っていた
目付鳥居耀蔵は渡辺崋山や高野長英らを逮捕する。
田原で蟄居することとなった。
画弟子たちは崋山を救おうと崋山の絵を売っていたが、
藩内外の世評がやかましくなり、藩に迷惑が及ぶことを
恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、
池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。
池ノ原幽居跡
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城宝寺
渡辺崋山の菩提寺として名高い寺。山門内には崋山の句碑が建てられている。
また、本堂奧の崋山霊牌堂の天井画は有名。
山門わきには通称穴倉と呼ばれる城宝寺古墳がある。
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渥美半島菜の花まつり
田原から伊良湖岬に向かう海岸沿いで菜の花まつり開催中でした。
八分咲といったところでした。
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また、時間が遅かったのでイチゴ狩りはできなかったが
取立ての章姫をゲット。洗わなくてもそのまま食べれました。
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日出(ひい)の石門
日出の石門は、とても緻密で固いチャートという堆積岩でできている。
このチャートは2億年前に、放散虫の殻などの珪酸物が、はるか南の
海洋底に沈殿してできた。
その後太平洋プレートの移動とともにこの地に運ばれてきた。
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伊良湖岬灯台
愛知県の渥美半島先端にある、伊良湖岬の突端に立つ
白亜塔形(円形)の中型灯台。
周辺は、三河湾国定公園に指定され、
太平洋や伊良湖水道を望む風光明媚の地。
また、「日本の灯台50選」にも選ばれている。
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うまいもん処 みの家で夕食
菜の花まつり期間中、渥美半島のお店では菜の花の料理が食べられます。
菜の花と大アサリの蒲焼丼を食べました。
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菜の花の天ぷら
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名物大あさり半平太
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盛りだくさんの充実した一日となりました。

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