ワカシャチ漫遊記第2章「福山・鞆の浦散策」

2018年11月18日(日)
福山・鞆の浦へ行ってきました。
これまで、プライベートや仕事で何年も前から何度も
近くに行ったことがありましたが、散策するのは
初めてでした。
鞆の浦
鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある
港湾およびその周辺海域です。
「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり
鞆港を中心とした海域のことである。
沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の
名勝および国立公園に指定されている。
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瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から
瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する
鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして
東西に分かれて流れ出してゆく。
つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。
「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、
沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で
潮流が変わるのを待たなければならなかった。
このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、
古代より潮待ちの港として知られていた。
鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、
江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が
全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみである。
2008年公開された『崖の上のポニョ』で、宮崎駿監督が構想を練った地として
有名になり、映画・テレビドラマ等、映像作品のロケが増えている。
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常夜灯
鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、
何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。
「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。
1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で
「活気に溢れた町」と記しています。
その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。
この常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、
港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。
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いろは丸展示館
いろは丸展示館は、鞆の沖に沈んでいる「いろは丸」の足跡を
たどるために作られた資料館です。
江戸期に建てられた蔵をそのまま利用していますので、
太い梁など、その堂々たる造りも見どころの一つです。
坂本竜馬が鞆に滞在した際に隠れていた「龍馬の隠れ部屋」を再現しています。
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いろは丸沈没・事件
いろは丸は江戸時代末期、いわゆる幕末に伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が
所有していた西洋式の、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船です。
最初の航海で瀬戸内海、備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市)で
紀州藩の明光丸(887トン)と衝突し、近くの鞆港(現在の広島県福山市)に
曳航しようとしたが、浸水のため宇治島沖で沈没した。
その後は、55万石の紀州藩を相手に、海援隊は坂本龍馬をはじめ、
総掛りで賠償の交渉にあたった。
最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎との
トップ会談に持ち込まれ、遂に紀州藩は賠償金の支払に同意したのである。
この決着の裏には、坂本龍馬や岩崎弥太郎の決死の根回しや、
対応が実を結んだ物であることは見逃してはならない。
龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した、傑出した戦いの勝利であった。
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枡屋清右衛門宅(龍馬の隠れ部屋)
『いろは丸事件』の際、鞆港を訪れた龍馬らが宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。
当時、廻船問屋を営んでいた桝屋は土佐藩や薩摩藩、大洲藩などとも
取引があったと思われ、それらの縁でいろは丸救出に関わったのです。
伝説的な龍馬の隠れ部屋が、今では一般に公開されています。
龍馬が宿泊したのは1867年4月23日から4日間。
京都で殺害される7か月前です。
自分の名前を伏せていたことからも(才谷梅太郎と名乗っていた)
幕府から命を狙われていることをすでに心得ていたことがうかがえます。
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6畳の隠れ部屋で、壁は当時のままです。
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国史跡福禅寺封潮楼
福禅寺對潮楼は空也上人の開基にして平安期創建の古刹です。
窓枠から受ける一幅の絵画を見るが如くの感動は
京都嵯峨大覚寺三十六世空性入道尊儀より直末の寺格を賜り、
長きに亘り福山藩の迎賓館として護持されてきました。
数千年、数億年の月日を費やして出来上がった自然美の庭園、
これが「日東第一形勝」と呼ばれる對潮楼からの景色です。
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ユネスコ記憶遺産
對潮楼にあった「朝鮮通信使に関する記録」6点が
平成29年10月30日にユネスコ記憶遺産に登録されました。
弁天島
弁天島は鞆の浦にある小さな無人島です。
1617(元和3)年に鞆の津を訪れた朝鮮通信使の日記にも
「明秀奇絶」と記され、その景観が絶賛されています。
朱塗りの弁天堂(福寿堂)が建っていることから弁天島と
呼ばれていますが、正式な名前は百貫島といいます。
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御舟宿いろは
「いろは丸」が紀州藩の軍艦・明光丸と衝突して沈没する事件の
談判の場として使われた町家(旧魚屋萬蔵宅)が、
現在の『御舟宿いろは』です。
この旅館、実は宮崎駿監督のデザイン画を元に改装されたものなんです。
店内には監督のデザイン画が飾ってあります。
今日は残念ながら、夕方になったので閉まっていました。
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お茶処 仙酔庵
名物の、ソフトクリームにたい焼きが飛び込んでいる
めで鯛ソフトを食べたかったが、たい焼き売り切れでした。
2時間くらいの散策で、課題の残る散策でした。
時間に余裕が欲しかった。
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