ワカシャチ漫遊記第3章「高野山お礼参り・満喫高野山」2019年11月 VOL.4
2019年11月10日(日)


午後からは蛇腹道・大伽藍エリア・女人堂エリア・金剛三昧院を散策します。
![danjyougaran_daiedo[1].jpg](https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/373/05/N000/000/000/157373068645789341870-thumbnail2.jpg)
蛇腹道
弘法大師は高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容された。
壇上伽藍を頭、現在の蓮花院までを龍が臥しているとたとえたので、
ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたり、こう呼ばれるようになった。

東塔
大治2年(1127)、白河上皇の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建された。
もともと蛇腹道から入ってすぐの東の端に建っていましたが、天保14年(1843)に焼失。
昭和59年(1984)、現在の場所に140年ぶりに再建された。

三昧堂
金剛峯寺第6代目の座主、済高が延長7年(929)に建立したお堂。
のちに西行法師が壇上に移され、修造に関わり、このお堂で行法をしていた。

大会堂
鳥羽法皇の皇女、五辻斎院発願により、鳥羽法皇の菩提を弔うために建立された。
もともとは東別所にあったものを、西行法師が伽藍に移築。

愛染堂
建武元年(1334)、後醍醐天皇の命により、天下泰平を願う「四海静平」、
天皇のご健勝を願う「玉体安穏」を祈るために建立された。
現在の建物は嘉永元年(1848)の再建です。

不動堂
建久8年(1197)、鳥羽法皇の皇女である八條女院発願により、行勝上人が建立した一心院が前身。
もともと一心院谷にあったものを、明治41年に伽藍へ移築。
平安貴族の邸宅風の外観はとても美しく、明治32年に国宝に指定される。

根本大塔
お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして
816年から887年ごろに完成したと伝えられます。
お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、
真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、
根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。
高さは48.5m、多宝塔様式としては日本最初のものといわれています。
現在の大塔は昭和12年(1937)完成のコンクリート製です。

大塔の鐘
弘法大師が鋳造を発願され、真然僧正の時代に完成。
現在の銅鐘は天文16年(1547)に完成した直径2.12mの鐘です。
当時の日本で4番目に大きい鐘であることから、別名、高野四郎とも呼ばれています。

金堂
高野山開創当時に建てられたもので、当時は講堂と呼ばれていました。
高野山一山の総本堂であり、重要な行事のほとんどは、この金堂で執り行われた。
現在の建物は、昭和7年(1932)に完成。

御影堂と三鈷の松
当初御影堂は、弘法大師の持仏堂として創建された。
後に、大師の御影を祀り、今の名前となりました。
三鈷の松は、弘法大師が唐より帰国される際、真言密教を広めるにふさわしい場所を求め、
明州の浜より、日本に向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げました。
その三鈷杵が高野山の木にひっかかっているのを見つけ、この地こそ真言密教を
広めるのにふさわしいと決心し、真言密教の修業道場と定めたと言われている。

西塔
根本大塔と、2基1対となるような重要な、擬宝珠高欄付き多宝塔。
仁和2年(886)、光孝天皇の勅命で真然大徳が建立。
五間四面、高さ27.27m、現在の建物は天保5年(1834)に建立された。

六角経蔵
平治元年(1159)、鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、
鳥羽法皇の菩提を弔うために建立された経蔵です。
経蔵の基壇のあたりに把手がついていて、この部分は回転するようにできており、
一回りすれば一切経を一通り読んだときと同じ徳をえることができるといわれています。
しっかり一回りしておきました。

ここから女人堂までは徒歩で。
途中、蓮華定院へ寄りました。
蓮華定院
蓮華定院は高野山の山内の中でも「五の室」と呼ばれる地区にあり、特に標高の高い所にあります。
蓮華定院の歴史は今から800年ほど前行勝上人という方が開基したことに始まります。
それから200年ほど時代を下った室町時代には長野県佐久地方の豪族と宿坊の契約を結びます。
その関係から戦国時代には真田家との縁ができ真田幸村(信繁)が隠居(軟禁)するに至りました。
蓮華定院は信繁の戦死後も高野山にある真田家の菩提寺として保護されてきました。

手入れの行き届いた庭。

院の裏には、真田家の供養塔があります。


女人堂
高野山は八葉の峰と呼ばれる1000m前後の山々に囲まれた山上の平坦地で、
明治5年に女人禁制が解かれるまで、厳しく女性の入山を規制してきました。
高野山への参道としては俗に「高野七口」と呼ばれる街道が通じており、
かつては各入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられ、
女人信者は御廟を拝みたいと、女人堂から女人堂へ八葉蓮華の峰々を辿ったといわれ、
この道を「女人道」と呼んでいます。


ここからはバスで、中心部まで戻り、金剛三昧院へ。
金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍 北条政子が、夫・源頼朝と
息子・実朝の菩提を弔うために建立しました。
高野山のメインストリート「小田原通り」から、ひと筋奥まった、
静かな環境にある宿坊寺院です。
国宝・多宝塔をはじめ、重要文化財の経蔵、四所明神社など、
数々の歴史的文化財を擁しており、高野山の世界遺産登録にあたっては、
根幹となる寺院として重要な役割を果たしました。
高野山の中でも、いにしえの面影を色濃く残した名刹であり、
鎌倉時代の風雅をそのままに伝える格別な雰囲気をたたえています。



金剛三昧院が今回の高野山散策で最後のお寺となりました。
奥の院の駐車場までバスで戻り、和歌山市内へ。
夕食に、定番の和歌山ラーメンを食べてフェリーで徳島へもどり帰路に。
丸宮中華そば


今日の歩数は25,811歩、初日を上回る歩数。
さすがに足がくたくたになりました。
高野山お礼参りの旅 END



午後からは蛇腹道・大伽藍エリア・女人堂エリア・金剛三昧院を散策します。
![danjyougaran_daiedo[1].jpg](https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/373/05/N000/000/000/157373068645789341870-thumbnail2.jpg)
蛇腹道
弘法大師は高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容された。
壇上伽藍を頭、現在の蓮花院までを龍が臥しているとたとえたので、
ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたり、こう呼ばれるようになった。

東塔
大治2年(1127)、白河上皇の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建された。
もともと蛇腹道から入ってすぐの東の端に建っていましたが、天保14年(1843)に焼失。
昭和59年(1984)、現在の場所に140年ぶりに再建された。

三昧堂
金剛峯寺第6代目の座主、済高が延長7年(929)に建立したお堂。
のちに西行法師が壇上に移され、修造に関わり、このお堂で行法をしていた。

大会堂
鳥羽法皇の皇女、五辻斎院発願により、鳥羽法皇の菩提を弔うために建立された。
もともとは東別所にあったものを、西行法師が伽藍に移築。

愛染堂
建武元年(1334)、後醍醐天皇の命により、天下泰平を願う「四海静平」、
天皇のご健勝を願う「玉体安穏」を祈るために建立された。
現在の建物は嘉永元年(1848)の再建です。

不動堂
建久8年(1197)、鳥羽法皇の皇女である八條女院発願により、行勝上人が建立した一心院が前身。
もともと一心院谷にあったものを、明治41年に伽藍へ移築。
平安貴族の邸宅風の外観はとても美しく、明治32年に国宝に指定される。

根本大塔
お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして
816年から887年ごろに完成したと伝えられます。
お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、
真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、
根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。
高さは48.5m、多宝塔様式としては日本最初のものといわれています。
現在の大塔は昭和12年(1937)完成のコンクリート製です。

大塔の鐘
弘法大師が鋳造を発願され、真然僧正の時代に完成。
現在の銅鐘は天文16年(1547)に完成した直径2.12mの鐘です。
当時の日本で4番目に大きい鐘であることから、別名、高野四郎とも呼ばれています。

金堂
高野山開創当時に建てられたもので、当時は講堂と呼ばれていました。
高野山一山の総本堂であり、重要な行事のほとんどは、この金堂で執り行われた。
現在の建物は、昭和7年(1932)に完成。

御影堂と三鈷の松
当初御影堂は、弘法大師の持仏堂として創建された。
後に、大師の御影を祀り、今の名前となりました。
三鈷の松は、弘法大師が唐より帰国される際、真言密教を広めるにふさわしい場所を求め、
明州の浜より、日本に向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げました。
その三鈷杵が高野山の木にひっかかっているのを見つけ、この地こそ真言密教を
広めるのにふさわしいと決心し、真言密教の修業道場と定めたと言われている。

西塔
根本大塔と、2基1対となるような重要な、擬宝珠高欄付き多宝塔。
仁和2年(886)、光孝天皇の勅命で真然大徳が建立。
五間四面、高さ27.27m、現在の建物は天保5年(1834)に建立された。

六角経蔵
平治元年(1159)、鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、
鳥羽法皇の菩提を弔うために建立された経蔵です。
経蔵の基壇のあたりに把手がついていて、この部分は回転するようにできており、
一回りすれば一切経を一通り読んだときと同じ徳をえることができるといわれています。
しっかり一回りしておきました。

ここから女人堂までは徒歩で。
途中、蓮華定院へ寄りました。
蓮華定院
蓮華定院は高野山の山内の中でも「五の室」と呼ばれる地区にあり、特に標高の高い所にあります。
蓮華定院の歴史は今から800年ほど前行勝上人という方が開基したことに始まります。
それから200年ほど時代を下った室町時代には長野県佐久地方の豪族と宿坊の契約を結びます。
その関係から戦国時代には真田家との縁ができ真田幸村(信繁)が隠居(軟禁)するに至りました。
蓮華定院は信繁の戦死後も高野山にある真田家の菩提寺として保護されてきました。

手入れの行き届いた庭。

院の裏には、真田家の供養塔があります。


女人堂
高野山は八葉の峰と呼ばれる1000m前後の山々に囲まれた山上の平坦地で、
明治5年に女人禁制が解かれるまで、厳しく女性の入山を規制してきました。
高野山への参道としては俗に「高野七口」と呼ばれる街道が通じており、
かつては各入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられ、
女人信者は御廟を拝みたいと、女人堂から女人堂へ八葉蓮華の峰々を辿ったといわれ、
この道を「女人道」と呼んでいます。


ここからはバスで、中心部まで戻り、金剛三昧院へ。
金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍 北条政子が、夫・源頼朝と
息子・実朝の菩提を弔うために建立しました。
高野山のメインストリート「小田原通り」から、ひと筋奥まった、
静かな環境にある宿坊寺院です。
国宝・多宝塔をはじめ、重要文化財の経蔵、四所明神社など、
数々の歴史的文化財を擁しており、高野山の世界遺産登録にあたっては、
根幹となる寺院として重要な役割を果たしました。
高野山の中でも、いにしえの面影を色濃く残した名刹であり、
鎌倉時代の風雅をそのままに伝える格別な雰囲気をたたえています。



金剛三昧院が今回の高野山散策で最後のお寺となりました。
奥の院の駐車場までバスで戻り、和歌山市内へ。
夕食に、定番の和歌山ラーメンを食べてフェリーで徳島へもどり帰路に。
丸宮中華そば


今日の歩数は25,811歩、初日を上回る歩数。
さすがに足がくたくたになりました。
高野山お礼参りの旅 END
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