ワカシャチ漫遊記第3章「崇徳天皇ゆかりの地散策(坂出市)」2020年8月 VOL.2

2020年8月23日(日)
崇徳天皇ゆかりの地巡り2日目。
今日は朝から精力的にゆかりの地を訪ねました。
高家神社
崇徳上皇崩御後、白峰山に遺体を運ぶ途中高屋村阿気に棺をおろして休めた時に
急に雨風雷鳴が起こり棺をおいた六角の石に少し血がこぼれたといわれています。
葬祭後、里の人は、当社に崇徳上皇を合祀し、六角の石も当社に納めました。
それが当社が「血の宮」と言われている理由です。
当社の御祭神は、天道根命、大鞆和気尊(応神天皇)
待賢門院(上皇の生母)そして崇徳上皇。
崇徳院の御霊はその昔、早良親王、菅原道真とともに大変恐れられていました。
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青海神社
崇徳上皇の遺体は白峯山で荼毘に付されたのであるが、さらにその時に怪異が起こった。
今度は荼毘の時に出た煙が、山のふもとのある一ヶ所に溜まって動かなくなった。
一説によると、その煙は輪を成し、その中に天皇尊号の文字が現れたとも伝わっている。
また煙が消えた場所には上皇のお気に入りの玉があったともされる。
その後、この地にも崇徳上皇の霊を慰める青海神社が建立され
(煙の宮)と呼ばれることになる(玉は社宝として保管されているらしい)。
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西行法師の道
崇徳上皇が讃岐で没して3年後に西行法師が御陵を詣でたとされる
青海神社から白峯御陵までのみちのり1.34キロを「西行法師の道」として平成15年に整備。
歌碑88基と石灯籠93基がある。
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松山の津
保元元年(1156年)7月、保元の乱に敗れた崇徳上皇は
最初に松山の津というところに着船したと伝えられています。
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長命寺跡
長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ
長曽我部襲来の際の兵火により消失したと伝えられています。
雲井御所はこの長命寺であったと記され、崇徳上皇の仮御所として
自邸では不敬があってはならないと考えた綾高遠が
すぐ傍の長命寺に移されたのだと伝えています。
上皇は、この長命寺境内に近くの武士を集めて射芸を楽しまれたり
歌を詠まれたりして過ごされました。
現在は、大正六年に建立された長命寺跡碑が、田の中に一本だけまっすぐ建っていて
かつての長命寺を偲ぶよすがとなっています。
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白峰宮(しろみねぐう)
崇徳上皇を祀るこの神社は、上皇の崩御の後に二条天皇によって
社殿が建てられたと伝えられています。
上皇の遺体が野澤井の水に浸されてから白峰山にて荼毘に付されるまでの間
毎夜、付近の霊木に神光があったそうで、当時の社殿はその場所に
設けられていたそうです。
このため、「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれるようになったそうです。
上皇崩御の後、高倉天皇は「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳天皇」と
追謚(ついし)され、稲税を納めたと伝えられています。
また源頼朝も稲税を納めて、下乗の立礼を建てたとされますが
残念ながら当時の社殿は天正年間に焼失してしまいました。
現在の社殿はその後に再建されたもので、今も周辺の人々から手厚く祀られ
「天皇さん」の名称で親しまれています。
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鼓岡神社
崇徳上皇が御所とされた木の丸殿があった場所であり
崩御の後、小さな祠を建てて祀られたものです。
神社の傍らに建つ擬古堂(ぎこどう)は、崇徳上皇の行在所址にその御殿
木ノ 丸殿を模して大正2年に建てられたものです。 
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擬古堂
保元三年(1158年)ごろ、崇徳上皇は雲井御所から府中の鼓岡の木ノ丸殿に移られました。
木ノ丸殿とは、木の丸太で造った御所といった意味合いで、
御所としては粗末な造りではなかったかと考えられています。
大正二年に崇徳上皇の750年祭に合わせて、鼓岡神社の石段を登った
右手に記念建造物が建設されました。
かつての木ノ丸殿を偲ぶといったことから、擬古堂と呼ばれ、屋根など古風な造りの外観から
少しでも当時を思い浮かべることができるように造られています。
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ほととぎす塚
鼓岡神社の石段の右手には小さな五輪塔が2つほどあります。
これは上皇が鼓岡で過ごされていたころ、ある日ホトトギスの声を聞かれて
都を深く思い出され、 『なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす』
とお詠みになられたところ、これを聞いたホトトギスは
自らさえずるのをやめたという言い伝えによるものです。
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内裏泉
近代の大干ばつにも枯れなかったという霊泉で、崇徳上皇が木ノ丸殿に住んでいた際
飲料用の井戸として使われたと伝えられています。
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菊塚
崇徳上皇が雲井御所で過ごされていたときに、
綾の局との間に皇子と皇女が誕生しました。
上皇はこの皇子を顕末(あきすえ)と名付けられ、菊の紋をつけて綾の局の父
綾高遠に賜り、綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。
この皇子の墓は、府中町鼓岡の北にあり、菊塚の名称で呼ばれています。
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わん塚
鼓岡神社の北方、菊塚の北東の畑の中に、大きい一枚の岩に
「(わん)塚」と刻まれた自然石が残っており、崇徳上皇が使用された
食器を埋めた場所との由来があります。
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姫塚
雲井御所にお住まいになられたころ、崇徳上皇を気付かった綾高遠は
何かと不便があってはならないと、自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に
上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。
上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが、幼くして亡くなられたと伝えられます。
この姫塚はその皇女の墓であるとされています。
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柳田
JR予讃線沿いに,小さな石碑の建っているところがあります。
ここは柳田といわれ、崇徳上皇が殺害された所だといわれています。
崇徳上皇は長寛二年に崩御しますが、その死因について
『保元物語』や『平家物語』等には特に記述がありません。
ただし、江戸時代の地誌である『讃州府誌(さんしゅうふし)』には二条天皇が
上皇の暗殺を命じ、三木近安(みきちかやす)という武士が鼓岡を
襲撃したということが記されています。
近安の襲撃を逃れた上皇は、大きな柳の樹の穴に隠れましたが
その隠れた姿が池の水面に映り、見つかって殺害されたとされています。
その後、この地に柳を植えても、枯れるばかりで決して育たなったそうです。
現在は、草が沢山あり、碑を見つけることができなかった。
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坂出市には、崇徳天皇ゆかりの地が沢山あったが
かなり荒廃している場所・看板も多くあった。
もっと、しっかり、管理してPRできれば
とても興味深く良い観光資源となるはずです。
以下の2カ所は、崇徳天皇のゆかりの地ではないが、
同じエリアにある、押さえておきたいスポットです。
讃岐国分跡
坂出市にはかつて讃岐国の国府(国庁)があったとされています。
詳しい場所はいまだ分かっていませんが、,府中町の本村地区に
”聖堂”や”正倉””印鑰(いんやく)””垣ノ内(かきのうち)”といった
地名が残されてることなどから、この付近にあったと想定されています。
国府は鎌倉時代にはその機能を失ってしまいましたが、讃岐国司として任命され
この地を訪れた貴族の中に、学問の神様として知られる菅原道真(すがわらのみちざね)がいます。
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開法寺塔跡
出土の瓦や塔の様式から、白鳳時代の寺跡と考えられ、県下でも最古の寺の一つとされています。
昭和45年に鐘つき堂と伝承のあった当地の調査が実施され、創建当初の礎石や塔基壇が発見されて
県下で最もよく旧態を残している塔址として県指定となっています。
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坂出市は、讃岐国の中心地であったことがよく分かった。
(国府は、奈良時代に全国の国ごとに置かれた役所で、平安時代末期には廃絶する)

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