ワカシャチ漫遊記第3章「香川県島めぐり 本島」2020年8月

2020年8月29日(土)
香川県丸亀市本島へ行ってきました。
本島
本島(ほんじま)は、香川県丸亀市に属する島です。
塩飽(しわく)諸島の中心で、四人の年寄が勤番で政務を行った
塩飽勤番所、敵襲からの防御を考え細い路地が入り組んだ
古い町並みが残るかつての塩飽水軍の本拠「笠島」などが見られる。
今も塩飽諸島の中で最も人口が多い。
塩飽諸島
塩飽諸島(しわくしょとう)は、瀬戸内海に浮かぶ諸島。
塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、瀬戸内海の中でも、
岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて
28の島々から成り、名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。
戦国時代には塩飽水軍(しわくすいぐん)が活躍し、
江戸時代は人名(にんみょう)による自治が行われたことで有名。
人名制(にんみょうせい)
16世紀後半、信長が航行特権を与えたのを契機に
豊臣秀吉から検地高1250石の領知を認められた人名は
塩飽島中船方650人のことで、その数は本島の泊、笠島浦をはじめ
塩飽諸島の20の浦々に90から7の範囲で配分されていた。
大名でも小名でもない船方衆に1250石を領知
租税を免じ、自治を許す破格の待遇だったことがよくわかります。
江戸時代、人名は徳川幕府の御用船方として船役・加子(かこ)役を
負担する代りに島の領知権を安堵され,周辺海域の漁場の権益も保証された。
本島へのアクセス
丸亀港より、本島汽船フェリーで35分。
10:40発のフェリーで本島へわたりました。(11:15着)
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真夏の炎天下でしたが、歩いて散策することにしました。
本島港周辺
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本島パークセンター
本島の観光案内所で喫茶店も併設されています。
本島の情報を収集できます。
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日本遺産
日本遺産とは、文化庁が地域の歴史的魅力や特色を通じて
文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として認定し
地域活性化を目指す取組です。
「知ってる!? 悠久の時が流れる石の島
~海を越え,日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」
として笠岡市・丸亀市・小豆島町・土庄町の2市2町に
日本遺産認定されました。
〇ストーリーの概要
瀬戸内備讃諸島の花崗岩と石切り技術は、長きにわたり日本の建築文化を支えてきた。
日本の近代化を象徴する日本銀行本店本館などの西洋建築
また古くは近世城郭の代表である大坂城の石垣など
日本のランドマークとなる建造物が、ここから切り出された石で築かれている。
島々には、400年にわたって巨石を切り、加工し、海を通じて運び
石と共に生きてきた人たちの希有な産業文化が息づいている。
世紀を越えて石を切り出した丁場(ちょうば)は
独特の壮観な景観を形成し、船を操り巨石を運んだ民は
富と迷路のような集落を遺した。
今なお、石にまつわる信仰や生活文化、芸能が継承されている。
本島では高無坊山の石切場、年寄の墓、木烏神社鳥居
勤番所や笠島まち並みが対象です。
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Vertrek「出航」/石井章
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塩飽勤番所
江⼾時代、塩飽領を統治する「年寄」が交代で政務を執る役所として建築された建物です。
「勤番所」と呼ばれる建物は全国でもここだけで、国の史跡に指定されています。
建物内には、織⽥信⻑・豊⾂秀吉・徳川家康らが、その当時領地を認めた朱印状など
塩飽⽔軍に関わる史料が展⽰されています。
また咸臨丸の乗組員には多く塩飽諸島出身者がおり
その乗組員の遺品や咸臨丸の模型なども展示されている。
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受付のおばさんから、冷たいお茶の接待を受けました。
吉田邸
塩飽大工が最後に作った家とされる「吉田邸」。
国の重要伝統的建造物群保存地区である笠島の古い町並みの中にたたずむ邸宅は
細部に塩飽大工の技が垣間見られるぜいたくな造り。
本島のかつての繁栄をしのぶことができる。
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入縁側のすぐ左にあるトイレは陶磁器製。(有田焼)
ここは来客用のトイレであり、通常使うことは無かったそうです。
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吉田邸が全国的に有名なったのが、テレビ東京の「なんでも鑑定団」。
吉田さんが所有していた江戸時代の人気絵師・伊藤若冲(1716〜1800年)の
墨画が本物であるという鑑定を受け、評価額1500万円が示されたのです。
展示はレプリカですが、1年に何度かは本物を展示するそうです。
吉田さんが家の中を紹介してくれました。
家の床の間にレプリカの掛け軸があります。
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墨絵のタオル2枚購入。
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吾亦紅(われもこう)
古い町並みの古民家カフェ。
コロナ禍で人数制限をして対応されていた。
予約もせずに無理やり入れてもらった。
食後、奥さんと話ができ、本島の歴史などを教えてもらう。
まだまだ島のPRが足りないと嘆いておられた。
今日、島を観光しているが、観光客はほかに1組いたかどうかで
午後からは、ほかの観光客に会うことはなかった。
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昼食後は笠島集落散策
笠島集落
国選定の伝統的建造物群保存地区。
江戸末期から戦前にかけての建物が残る。
迷路のような町並みに、千本格子の出窓を配した家々や
しっくい塗りの白壁が連なり、塩飽大工の技術力の高さを随所で感じさせる。
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海岸に出て、海岸線を歩き、瀬戸大橋を見る。
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「水の下の空」/アレクサンドル・ポノマリョフ
遠見山展望台から瀬戸大橋を見る。
標高110メートルの遠見山頂上までの散策遊歩道からは
備讃瀬戸に浮かぶ多島美を望むことができる。
また頂上からの眺望は本島一であり瀬戸大橋の全景を見渡せる
絶好のポイントとなっている。
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長徳寺
平安時代の⻑徳年間(995〜998年)に開かれたと伝わる寺。
境内にある樹齢450年余のモッコクの⽊は
樹⾼約9m、枝張り14〜15mと太い枝が四⽅に広がっており
モッコクの中でも珍しい樹形をしています。
⾹川県の保存⽊に指定されています。
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17:10本島港発フェリーで丸亀に戻る。
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炎天下の観光終わり。

ワカシャチ漫遊記第3章「崇徳天皇ゆかりの地散策(坂出市)」2020年8月 VOL.2

2020年8月23日(日)
崇徳天皇ゆかりの地巡り2日目。
今日は朝から精力的にゆかりの地を訪ねました。
高家神社
崇徳上皇崩御後、白峰山に遺体を運ぶ途中高屋村阿気に棺をおろして休めた時に
急に雨風雷鳴が起こり棺をおいた六角の石に少し血がこぼれたといわれています。
葬祭後、里の人は、当社に崇徳上皇を合祀し、六角の石も当社に納めました。
それが当社が「血の宮」と言われている理由です。
当社の御祭神は、天道根命、大鞆和気尊(応神天皇)
待賢門院(上皇の生母)そして崇徳上皇。
崇徳院の御霊はその昔、早良親王、菅原道真とともに大変恐れられていました。
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青海神社
崇徳上皇の遺体は白峯山で荼毘に付されたのであるが、さらにその時に怪異が起こった。
今度は荼毘の時に出た煙が、山のふもとのある一ヶ所に溜まって動かなくなった。
一説によると、その煙は輪を成し、その中に天皇尊号の文字が現れたとも伝わっている。
また煙が消えた場所には上皇のお気に入りの玉があったともされる。
その後、この地にも崇徳上皇の霊を慰める青海神社が建立され
(煙の宮)と呼ばれることになる(玉は社宝として保管されているらしい)。
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西行法師の道
崇徳上皇が讃岐で没して3年後に西行法師が御陵を詣でたとされる
青海神社から白峯御陵までのみちのり1.34キロを「西行法師の道」として平成15年に整備。
歌碑88基と石灯籠93基がある。
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松山の津
保元元年(1156年)7月、保元の乱に敗れた崇徳上皇は
最初に松山の津というところに着船したと伝えられています。
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長命寺跡
長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ
長曽我部襲来の際の兵火により消失したと伝えられています。
雲井御所はこの長命寺であったと記され、崇徳上皇の仮御所として
自邸では不敬があってはならないと考えた綾高遠が
すぐ傍の長命寺に移されたのだと伝えています。
上皇は、この長命寺境内に近くの武士を集めて射芸を楽しまれたり
歌を詠まれたりして過ごされました。
現在は、大正六年に建立された長命寺跡碑が、田の中に一本だけまっすぐ建っていて
かつての長命寺を偲ぶよすがとなっています。
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白峰宮(しろみねぐう)
崇徳上皇を祀るこの神社は、上皇の崩御の後に二条天皇によって
社殿が建てられたと伝えられています。
上皇の遺体が野澤井の水に浸されてから白峰山にて荼毘に付されるまでの間
毎夜、付近の霊木に神光があったそうで、当時の社殿はその場所に
設けられていたそうです。
このため、「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれるようになったそうです。
上皇崩御の後、高倉天皇は「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳天皇」と
追謚(ついし)され、稲税を納めたと伝えられています。
また源頼朝も稲税を納めて、下乗の立礼を建てたとされますが
残念ながら当時の社殿は天正年間に焼失してしまいました。
現在の社殿はその後に再建されたもので、今も周辺の人々から手厚く祀られ
「天皇さん」の名称で親しまれています。
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鼓岡神社
崇徳上皇が御所とされた木の丸殿があった場所であり
崩御の後、小さな祠を建てて祀られたものです。
神社の傍らに建つ擬古堂(ぎこどう)は、崇徳上皇の行在所址にその御殿
木ノ 丸殿を模して大正2年に建てられたものです。 
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擬古堂
保元三年(1158年)ごろ、崇徳上皇は雲井御所から府中の鼓岡の木ノ丸殿に移られました。
木ノ丸殿とは、木の丸太で造った御所といった意味合いで、
御所としては粗末な造りではなかったかと考えられています。
大正二年に崇徳上皇の750年祭に合わせて、鼓岡神社の石段を登った
右手に記念建造物が建設されました。
かつての木ノ丸殿を偲ぶといったことから、擬古堂と呼ばれ、屋根など古風な造りの外観から
少しでも当時を思い浮かべることができるように造られています。
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ほととぎす塚
鼓岡神社の石段の右手には小さな五輪塔が2つほどあります。
これは上皇が鼓岡で過ごされていたころ、ある日ホトトギスの声を聞かれて
都を深く思い出され、 『なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす』
とお詠みになられたところ、これを聞いたホトトギスは
自らさえずるのをやめたという言い伝えによるものです。
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内裏泉
近代の大干ばつにも枯れなかったという霊泉で、崇徳上皇が木ノ丸殿に住んでいた際
飲料用の井戸として使われたと伝えられています。
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菊塚
崇徳上皇が雲井御所で過ごされていたときに、
綾の局との間に皇子と皇女が誕生しました。
上皇はこの皇子を顕末(あきすえ)と名付けられ、菊の紋をつけて綾の局の父
綾高遠に賜り、綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。
この皇子の墓は、府中町鼓岡の北にあり、菊塚の名称で呼ばれています。
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わん塚
鼓岡神社の北方、菊塚の北東の畑の中に、大きい一枚の岩に
「(わん)塚」と刻まれた自然石が残っており、崇徳上皇が使用された
食器を埋めた場所との由来があります。
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姫塚
雲井御所にお住まいになられたころ、崇徳上皇を気付かった綾高遠は
何かと不便があってはならないと、自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に
上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。
上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが、幼くして亡くなられたと伝えられます。
この姫塚はその皇女の墓であるとされています。
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柳田
JR予讃線沿いに,小さな石碑の建っているところがあります。
ここは柳田といわれ、崇徳上皇が殺害された所だといわれています。
崇徳上皇は長寛二年に崩御しますが、その死因について
『保元物語』や『平家物語』等には特に記述がありません。
ただし、江戸時代の地誌である『讃州府誌(さんしゅうふし)』には二条天皇が
上皇の暗殺を命じ、三木近安(みきちかやす)という武士が鼓岡を
襲撃したということが記されています。
近安の襲撃を逃れた上皇は、大きな柳の樹の穴に隠れましたが
その隠れた姿が池の水面に映り、見つかって殺害されたとされています。
その後、この地に柳を植えても、枯れるばかりで決して育たなったそうです。
現在は、草が沢山あり、碑を見つけることができなかった。
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坂出市には、崇徳天皇ゆかりの地が沢山あったが
かなり荒廃している場所・看板も多くあった。
もっと、しっかり、管理してPRできれば
とても興味深く良い観光資源となるはずです。
以下の2カ所は、崇徳天皇のゆかりの地ではないが、
同じエリアにある、押さえておきたいスポットです。
讃岐国分跡
坂出市にはかつて讃岐国の国府(国庁)があったとされています。
詳しい場所はいまだ分かっていませんが、,府中町の本村地区に
”聖堂”や”正倉””印鑰(いんやく)””垣ノ内(かきのうち)”といった
地名が残されてることなどから、この付近にあったと想定されています。
国府は鎌倉時代にはその機能を失ってしまいましたが、讃岐国司として任命され
この地を訪れた貴族の中に、学問の神様として知られる菅原道真(すがわらのみちざね)がいます。
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開法寺塔跡
出土の瓦や塔の様式から、白鳳時代の寺跡と考えられ、県下でも最古の寺の一つとされています。
昭和45年に鐘つき堂と伝承のあった当地の調査が実施され、創建当初の礎石や塔基壇が発見されて
県下で最もよく旧態を残している塔址として県指定となっています。
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坂出市は、讃岐国の中心地であったことがよく分かった。
(国府は、奈良時代に全国の国ごとに置かれた役所で、平安時代末期には廃絶する)

ワカシャチ漫遊記第3章「崇徳天皇ゆかりの地散策(坂出市)」2020年8月 VOL.1

2020年8月22日(土)23日(日)
香川県坂出市の崇徳上皇ゆかりの地を散策しました。
県外移動自粛中のコロナ禍の中、8月は県内中心の散策となりました。
崇徳天皇
崇徳天皇(すとくてんのう)は日本の第75代天皇で、鳥羽天皇の第一皇子。
平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で
後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。
讃岐に流されたのちの崇徳天皇
保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐へ流され、林田の雲井御所(くもいごしょ)で
約三年過ごした後、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)にある
木ノ丸殿(このまるでん)に移られました。
木ノ丸殿での上皇は、一日中部屋にこもり、書物を読んだりお経を唱えたりしていましたが
一心に毎日お経を写し始め、三年もかかり多数の写経をし、下記の和歌を添え京都に送りました。
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」
崇徳上皇としては、後の世のためを思い一心に写したお経だったため
讃岐のような田舎へ置いておくのがつらく、都に近い八幡山か高野山か
もし許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと思っていました。
しかし、京都の朝廷は、罪人の写したお経はよいお経のはずがないと受け取らず
崇徳上皇のもとに送り返してしまいました。
崇徳上皇はたいへん悲しまれたと云われています。
崇徳上皇は、権力の座を賭けた政争「保元の乱」の首謀者として
讃岐国(香川県)に流され、この地で亡くなった悲運の帝です。
百人一首にも選ばれるほどの和歌の才能を持ちながら波乱の一生を終え
のちに怨霊になって平清盛らを悩ませたと言われる崇徳上皇ゆかりの地を訪ねます。
白峯御陵
1164年8月26日、46歳で崩御された崇徳上皇は、遺体を八十場の泉に浸さた後
9月16日に白峰山で荼毘に付され、その場に葬られました。
お墓である御陵は、積み石の方墳であったといわれています。
都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒廃していたといわれています。
初代高松藩主松平頼重(まつだいらよりしげ)、五代頼恭(よりたか)、
十一代頼聡(よりとし)らにより、修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど
今日みられるように整備されました。
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勅額門
頓証寺の随身門であり、左右に保元の乱で崇徳天皇を守った
源為義・為朝父子の武将像が置かれていました。
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頓証寺殿
崇徳上皇の霊廟であり、建久2年(1191)遠江阿闍利章実が鼓岡の行在所を移して
上皇の自画像を奉安し、頓証菩提を弔ったのにはじまるといわれています。
現在の建物は延宝8年(1680)高松藩主松平頼重・頼常が再建したものです。
拝殿は檜皮葺き・前面蔀戸・庭前に橘と桜を植えて、御所の建物を真似ています。
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西行法師石像
保元物語によると、仁安3年(1168)白峯御陵(崇徳院)の御陵に詣でた西行は
陵前に座ってお経を繰り返し読み、「よしや君むかしの玉の床とても
かからんのちは何にかはせん」の歌を奉ったと云います。
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雲井御所跡
保元の乱に敗れ、讃岐の松山の津へ着船された当時の仮の御所。
上皇の御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった
綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられています。
この最初の御所について、『保元物語』は、松山の御堂に入られたと伝え
『白峯寺縁起』には、上皇は高遠の御堂にて三年を過ごされたと記されています。
この仮の御所で毎日を過ごされた上皇が詠まれた歌に
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」というものがあります。
この歌にちなんで雲井御所と呼ばれるようになったといわれています。
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野澤井
1164年(長寛2年)8月26日、讃岐に流されて8年、崇徳上皇は鼓岡で崩御されます。
このことは直ちに都に伝えられ、上皇の遺体の処置について朝廷の指示を仰ぐこととなりました。
夏の暑い時期で、都からの指示を待つ間、古来から霊水と伝えられる野澤井の清水に浸して
遺体が腐敗することを避けたと伝えられています。
この野澤井とは、今の西庄町八十場の清水付近の古い呼び名です。
この清水は、坂出に伝わる悪魚退治の伝説に登場する霊水でもあり
悪魚の毒気に倒れた八十八人の兵士がこの水を飲んだことで蘇生したため
弥蘇場(やそば)の水とも呼ばれます。(現在は八十場)
今も昔と同様、夏に涼しい場所であり、多くの人が涼を求めて賑わっています。
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ということで、我々も、涼を求め八十場に来ました。
八十八ところてん清水屋(きよみずや)
創業200年の老舗でところてん購入。
時間が遅かったため、テイクアウトのみでした。
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<参考:崇徳上皇代表作(百人一首)>
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」
意:滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、
現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。

ワカシャチ漫遊記第3章「香川県島めぐり 豊島散策」2020年8月 VOL.2

2020年8月8日豊島午後の部
島キッチンで食事後、14時予約の豊島美術館へ向かいました。
島キッチン方は、下り坂を約20分歩きました。
このあたりの民家の石垣は、特徴があります。
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この道の先に、紺碧の海と空が広がる景色が・・・
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今日は残念ながら、碧い海と青い空は見ることができなかった。
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豊島の棚田
2010年、豊島美術館の開館と瀬戸内国際芸術祭の開催に合わせ、
豊島の住民の方や行政、そして美術館を運営する
公益財団法人福武財団による棚田の復元が行われました。
水路が壊れていたり草木の根がはびこっていたりと、
原形が崩れた場所が多くあり、完全なもとの姿には戻りませんでしたが、
復元された棚田は、その土の状態に合わせて管理されています。
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13:50 豊島美術館到着
豊島美術館
瀬戸内海を望む豊島唐櫃(からと)の小高い丘に建設された
アーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛による「豊島美術館」。
休耕田となっていた棚田を地元住民とともに再生させ、その広大な敷地の一角に、
水滴のような形をした建物が据えられました。
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広さ40×60m、最高高さ4.5mの空間に柱が1本もないコンクリート・シェル構造で、
天井にある2箇所の開口部から、周囲の風、音、光を内部に直接取り込み、
自然と建物が呼応する有機的な空間です。
内部空間では、一日を通して「泉」が誕生します。
その風景は、季節の移り変わりや時間の流れとともに、無限の表情を伝えます。
水玉が生まれ、アメーバのように動き、結合し大きな泉になります。
今までの美術館とは、全く別物でした。
14:40 バスで唐櫃港へ
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心臓音のアーカイブ
クリスチャン・ボルタンスキーは人々が生きた証として、
心臓音を収集するプロジェクトを2008年から展開しています。
「心臓音のアーカイブ」は、これまで氏が集めた世界中の
人々の心臓音を恒久的に保存し、それらの心臓音を
聴くことができる小さな美術館です。
自分の心臓音をここで採録することもできます。
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勝者はいない マルチ・バスケットボール
思い思いのルールで楽しむバスケットボール。
島の人や来場者たちがバスケットボールを楽しめる場を創出。
リングがたくさんあるボードで、思い思いのルールで楽しめる。
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全行程終了し、唐櫃港へ戻ってきました。
ここから、16:50のバスで家浦港へ戻り船で高松へ行く予定でしたが、
16:20小豆島行きのフェリーが到着するので、急遽ルートを変更し、
小豆島土庄港へ行きました。
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このフェリーは、岡山の宇野港より豊島を経由し小豆島に向かう船です。
小豆島までは30分で到着。
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土庄港でフェリーを乗り換え、高松へ戻りました。
実は、少し時間はかかりましたが、のんびり大きな船で帰れ大満足。
料金も、大人1,190円/人と安かった。
唐櫃港-土庄港 大人490円/人
土庄港-高松港 大人700円/人
17:30 土庄港発
18:35 高松港着
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ワカシャチ漫遊記第3章「香川県島めぐり 豊島散策」2020年8月 VOL.1

2020年8月8日(土)
コロナ禍、第2波到来中、県外移動は自粛し
豊島(てしま)へ行ってきました。
豊島(てしま)
豊島(てしま)は 瀬戸内海の東部、小豆島の西方3.7kmに位置する島です。
直島諸島に属し、香川県小豆郡土庄町に属します。
豊島は、面積14.5km²、人口約800人の島で、豊島家浦(てしまいえうら)
豊島唐櫃(てしまからと)、豊島甲生(てしまこう)の3つがある。
今回、島内は徒歩とバスで、家浦・唐櫃を散策しました。
9:30: 高松港より家浦港へ高速船で向かいます。(コロナ禍臨時ダイヤ)
片道1,350円 大人
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予想していた船より、かなり小さな船でした。
10:20: 豊島家浦港へ到着
島内の移動は、ほとんどの人がレンタサイクルを利用されていた。
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豊島横尾館
家浦港より徒歩10分 大人520円/人
アーティスト・横尾忠則と、建築家・永山祐子による「豊島横尾館」は、
豊島の玄関口となる港に面した家浦地区の、集落にある古い民家を
改修してつくられました。(2013年7月20日開館)
展示空間は、既存の建物の配置を生かして「母屋」「倉」「納屋」で構成され、
平面作品11点を展示しています。
また、石庭と池、円筒状の塔にはインスタレーションが展開され、
作品空間は敷地全域にシンボリックな拡がりをみせます。
その空間は、生と死を同時に想起させる哲学的な場となり、
さらに、建物には光や色をコントロールする色ガラスを用いて、
豊島の光や風や色、作品の見え方をさまざまに変容させて、
空間体験をコラージュのようにつなげます。
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針工場
豊島横尾館より徒歩10分 大人520円/人
豊島の家浦岡集落にて、平成を迎える手前で閉じられたメリヤス針の製造工場跡。
そこに設置されたのは、宇和島の造船所にて一度も本来の役目を果たすことなく
約30年間放置されていた、鯛網漁船の船体用の木型です。
別々の記憶を背負った2つの存在が、アーティスト大竹伸朗を通して重ね合わせられ、
新たな磁場となって作品空間を形成しています。
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一旦、家浦港へ戻りバスで豊島唐櫃へ向かいます。
途中の道には、オリーブや栗が身を着けていました。
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11:50 家浦港をバスで出発。12:01 清水前下車。
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唐櫃の清水
小豆島西方の豊島にある生活用の水場。
台形平面を有し、雛壇状の花崗岩布積で壁面をつくる。
湧水を上部の貯水槽から3連小水槽、大水槽に流し、各水槽に異なる用途を充てる。
余水は脇の水路から町の下水路に通ずる。
往時からの生活環境を物語る貴重な建造物。
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ピピロッティ・リスト
蔵にチューリップや風景などカラフルな映像を投影する空間展示。
作品名:あなたの最初の色(私の頭の中の解-私の胃の中の溶液)
アーティスト:ピピロッティ・リスト
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ストームハウス
大人300円/人
唐櫃岡の実際に使われていた民家にて、嵐がやってきてから
過ぎ去るまでの約10分間を体感できる作品です。
激しさ増す雨と、鳴り響く稲妻、木の影のざわめき、
吹き荒れる突風と室内に訪れる変化によって鑑賞者を
非日常世界に連れ込んでくれます。
アーティスト:ジャネット・カーディフ& ジョージ・ビュレス・ミラー
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遠い昔に、田舎の実家で、こんなことあったな・・・
という記憶を蘇らせてくれる場所でした。
島キッチン
瀬戸内国際芸術祭2010に、集落の空家を建築家の安部良さんが設計・再生した、
「食とアート」で人々をつなぐ出会いの場です。
島キッチンセット 1,620円 キーマカレーセット 1,296円、季節限定ドリンク 540円を
注文し、縁側でいただきました。
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8月8日Vol.2 午後へ続く

ワカシャチ漫遊記第3章「天空の鳥居」2020年5月

2020年5月28日(木)
世の中はコロナ自粛ムードの中、最近「天空の鳥居」で有名になっている
香川県善通寺市の高見神社へ行ってきました。
平日ですが、会社がシフト勤務となり休みでした。
平日と、自粛期間で観光客はまばら。
前回、断念した時は、車が渋滞し、山に上がれない状態でしたから、
比較にならないほど、余裕の観光でした。
多いときはシャトルバスも運行される人気の場所です。
現在、土日やGW・お盆期間など運行されています。
高見神社
讃岐に二十四ある延喜式内社の一つで、古くから格式ある神社です。
標高404メートルの稲積山の頂上に本宮があるため、
「稲積神社(いなづみじんじゃ)」「稲積さん」ともよばれており、
本宮からは観音寺市内と美しい瀬戸内海が一望できます。
本宮の鳥居は「天空の鳥居」として知られ、2018年には四国八十八景にも選出されました。
まずは、頂上の本宮へいきました。
車は離合できない場所もあり、注意しながら1本道を登ります。
最後の分かれ道(標識は要所にあり迷うことはありません)
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駐車場は、15台から20台くらいしかスペースがないため、土日は混雑必死です。
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ルートを看板で確認し登っていきます。
途中にある、仁尾方面の展望台からの景色もきれいです。
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駐車場から約150m、10分で高見神社本宮に到着、まずはお参りしました。
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そいて、天空の鳥居からの絶景です。
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動画はユーチューブにもアップしています。
https://www.youtube.com/watch?v=PJzIaFC9SaI
外宮にお参り
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外宮から本宮の鳥居が見えます。
歩くと約1時間かかるようです。
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観音寺に来たので、銭形砂絵を見て帰りました。
観音寺市といえば「寛永通宝」と言われるほど、
市内で一番人気がある観光スポットです。
銭形砂絵
有明浜の白砂に描かれたこの砂絵。
大きさは東西122m、南北90m、周囲345m。
一般には、寛永10年(1633年)に藩主、生駒高俊公を歓迎するために
一夜にして作られたと言われており、
この砂絵を見れば健康で長生きし、
お金に不自由しないと伝えられています。
グリーンやゴールドにライトアップされ、夜もきれい。
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