ワカシャチ漫遊記第3章「源平合戦の郷散策(香川県牟礼町)」2020年9月 VOL.2

2020年9月13日(日)/
源平合戦のゆかりの地・屋島を散策。
後半は、遊鶴亭展望台を下山した後、
牟礼町のゆかりの地を散策しました。
源平合戦屋島の戦い
1185年、平氏軍が本拠地としていた讃岐の国屋島へ
源義経ら源氏軍が攻め入り、屋島の戦いが起こりました。
平家物語』と平家物語の異本として知られる『源平盛衰記』で
伝説として語り継がれているのが「扇の的」と「弓流し」です。
現在、散策した場所は海ではないが、この伝説を体感できます。
義経の弓流し
義経の弓流しは、平安時代末期の源平合戦の中で有名な逸話のひとつです。
平家物語によると、この戦いで、義経は自らの弓を誤って海に流してしまいます。
義経は部下たちが止めるのを聞かず、敵兵の行き交う沖まで行き、
弓を拾ってきました。
戻った義経は「もっと強い弓ならいざ知らず、源氏の大将がこのような
弱い弓を使っていることを平氏に知られては、末代までの恥となる。
そのため命を顧みず拾いに行ったのだ。」と語り、
部下たちは感銘を受けたそうです。
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那須与一扇の的
義経によって追い詰められた平家軍は、源氏軍が意外と少ないことに気付くと
船を岸に寄せて弓矢での攻撃を開始しました。
激しい戦いでしたが、日が暮れるとともに休戦状態になります。
平家軍は小舟に美しい女性を乗せ、「竿の先の扇の的を射よ」と挑発しました。
いくら休戦中とはいえ、これを外せば源氏の名に傷がついてしまいます。
義経は腕の良い武士を探し、畠山重忠に的を射るよう命じました。
しかし重忠はこれを辞退し、代わりに下野国の武士・那須十郎を推薦します。
ところが十郎も傷が癒えないからとやはり辞退し、
弟の那須与一を推薦したのです。
抜擢された那須与一は、仕方なくこれを引き受けることとなります。
与一は馬に乗って海に入ると、弓を構えて「南無八幡大菩薩」と神仏に祈りました。
そして、射損じたら切腹する覚悟で矢を放ったのです。
皆が見守る中で放たれた矢は、見事に扇の柄を射抜きました。
空中を舞い上がった扇は春風に揺られ、その後そっと海に落ちたのです。
このシーンは『平家物語』の名場面「扇の的」として知られています。
この様子を見た平家は、敵ながら天晴れと舟の端を叩いて感嘆しました。
また、陸にいた源氏も弓の容器を叩きながら歓喜したのです。
敵同士とはいえ、その場は大いに盛り上がりました。
祈り岩
与一が弓を射る前に神仏に祈りを捧げた場所であるとされる。
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駒立岩
祈り岩の北西数10歩の川中にある巨石で、潮が引くと頭を出す。
那須与一がこの石上に馬を止めて、扇の的を射たといわれている。
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総門跡
神櫛王墓の北約200メートル、旧庵治街道の傍らにある。
寿永2年(西暦1183年)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、
屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。
この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。
総門は、その遺跡である。
源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、
故に里人はここを源氏の総門という。
高松藩主松平頼重(英公)は衡門(かぶきもん=冠木門)を建ててその古跡を表した。
現在の総門の南東に木戸(城戸)と呼ばれる集落がある。
そこで、ここに総門があったのではないかとする説がある。
英公は世人に広く知らせるため、今の街道筋に建てたのではないかといわれている。
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射落畠
総門の南側の細道を東に数10歩行き、
県道八栗・庵治線に突きあたる手前右側にある。
佐藤継信が義経の身代わりとなって射落とされたと伝わる場所である。
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半日の散策ではあったが、盛りだくさんの内容でした。



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