ワカシャチ漫遊記第3章「栗林公園散策」2021年2月

2021年2月11日(木)
梅の花が見ごろということで、近所の栗林公園へ行ってきました。
栗林公園
栗林公園は、寛永中期(西暦1631年頃)生駒家が当地の豪族であった
佐藤家の庭をもとに南湖一帯を築庭し、さらに寛永19年(西暦1642年)に
入部した松平家が5代100年余りをかけて拡大、修築を行い
延亨(えんきょう)2年(西暦1745年)に完成した。
松平家11代228年間下屋敷として使用され、
明治8年(西暦1875年)3月16日県に移管され、一般に公開された。
四国で唯一の特別名勝である。
公園は南庭と北庭とにわかれ、南庭は江戸時代初期から中期に見られる
回遊式大名庭園として優れた地割り石組みを有し、
北庭は元禄年間(1688~1704年)に造園され鴨場として使われてきたが、
明治末から大正初期にかけて近代的に整備改修された。
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南北の梅の庭園を中心に、園内を散策しました。
北梅園
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メジロも梅の蜜を一生懸命吸っていました。
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園内には3種類の気象庁の標本木がある。
北梅林のウメ・讃岐民芸館前のサクラ(ソメイヨシノ)・楓岸のカエデである。
高松地方気象台の「開花・満開・紅葉」の宣言は、これらの標本木に基づく。
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南梅園へ行く途中の池にはたくさんの鳥が
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全体的に、梅は見頃だが満開までもう少しといった感じでした。
定番の鞠月亭(きくげつてい)で一服
栗林公園に来ると必ずここでお茶します。
鞠月亭(きくげつてい)
江戸時代の初期に建てられた、数寄屋造りの純和風建築で、茶室を備える。
もとは7棟の配置が北斗七星に似ていることから、「星斗館(せいとかん)」と命名され、
歴代藩主には「大茶屋」と呼ばれていた。
明治初年に北側の2棟が取り払われ、5棟になる。
東南の南湖に突き出る棟の「鞠月楼」にあやかり、「鞠月亭」に改名された。
鞠月亭は四方正面の造りで、床を低くし、壁は少なく、風通しの良い夏向きの建物である。
舟をモチーフにした部屋は、へさきの雰囲気を醸し出す。
亭内には第68・69代内閣総理大臣の大平正芳の自筆題字を付した
「栗林園二十詠」の屏風が展示されている。
南庭の中心的な存在の亭内からの眺めは絶景で、開放感にあふれるとされている。
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園内随一の撮影スポット「飛来峰(ひらいほう)」から景色。
ここからの風景には船がよく似合います。
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現在の住まいから車で5分。
とてもぜいたくな気分です。
観光客は、まばらでした。



ワカシャチ漫遊記第3章「東かがわ散策」2021年2月

20201年2月7日(日)
気温16℃、3月下旬並みの気温となった。
コロナ禍の中、県外移動自粛で東かがわへ行きました。
お昼は、途中の志度で、香川の牡蠣をいただきました。
香川県志度の牡蠣
志度湾は、江戸時代に才人・平賀源内を生み出した
香川県さぬき市志度にあります。
香川県の東部、ちょうど小豆島に面しているところがさぬき市です。
瀬戸内海をはさんで、本州側は岡山県、兵庫県となり、大変牡蠣の養殖が盛んです。
放浪の俳人・種田山頭火も、さぬきの遍路みちを訪れ
数々の句を読むほど、詩情あふれる地域です。
シーズンではかき焼きも楽しめます。
香川さぬきの牡蠣生産規模は、広島、三陸、岡山などと比べたら、
もちろん小さいほうですが、昔からこの地域では牡蠣養殖が盛んです。
獲れたての殻付きカキを鉄板で豪快に焼き上げる「カキ焼き」は大人気。
カキの養殖を本業としているお店が多く、
その日の朝に水揚げしたばかりの新鮮なカキが味わえます。
カキ焼きの他にも、カキフライやカキごはんといったメニューがあるお店もあり、
まさに『カキ三昧』です。
海鮮かき焼きかくれ家
通常、この時期はほとんどの店が、完全予約制でしたが、
今日はたまたま、ラッキーなことに予約なしで入れました。
人気のレディースコースを頼みました。
かき尽くしのコースメニューに、かき焼き食べ放題がついていました。
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真珠島
真珠島は香川県さぬき市志度にある小さな島で、
志度寺縁起海女の玉取り物語のヒロイン海女が、
唐から送られた面光不背の玉を竜神から奪い返したという伝説と歴史の島です。
元和三年(1617)国主「生駒正俊」は『真珠島は、弁財天・吉祥天を安置しあり、
もっとも崇敬仕るべき事』と記した定め書を下し、また江戸時代には
藩主自ら幕府の巡検使をこの島に案内した。
大正の初め南部が陸続きとなり、戦前には海水浴場として賑わった。
戦後東側に養魚場が造られ、昭和四十九年の志度湾埋立工事で完全に陸化した。
西側には少しの渚を残し、昔の面影をとどめている。
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バベ木の端
護衛空母「島根丸」が見えた バベ木の端(はな)
 太平洋戦争が終局を迎えた昭和20年、日本海軍は神戸で民間商船「島根丸」を護衛空母(約2万トン)に改造していた。
 神戸が空襲を受け、軍はこれを隠すため4月3日鴨庄湾に曳航してきて、この先の湾中央部に投錨した。
 住民は敵の発見を逃れるため、軍の要請で松の木を甲板に立て並べて偽装したが、何の役にも立たなかった。
 7月に入り敵機に発覚され、毎日のように艦載機グラマンの機銃攻撃を受けた。
 住民は恐怖にさらされ日夜逃げ隠れしていた。
 7月27日午後2時頃、B29数機の爆雷投下を受け、後部3分の1から折れ大破し沈座したが、正姿のためかその後も攻撃は続いた。
 近海また内陸にも移航阻止のためか多数の機雷が投下された。
 戦後になり、空母は浪速ドックの手により何年もかけて解体され、機雷も掃海処理された。
 現在、空母「島根丸」の一部である通信用マストは、今も近くの新開消防屯所の警鐘台と屋島の四国村に健在である。
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大串自然公園
海・山・風など美しい自然とのふれあいが心ゆくまで満喫できるレジャースポット。
瀬戸内海を一望できる公園内には芝生広場を中心に、
四国唯一のワイン工場「さぬきワイナリー」、野外音楽広場「テアトロン」、
オートキャンプ場とコテージの「シーサイドコリドール」、テニスコートなど
魅力あふれる施設が点在し、休日には多くの家族連れや若者たちで賑わっている。
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野外音楽広場テアトロン
さぬき市野外音楽広場テアトロンは、中四国一の規模を誇る多目的な野外劇場です。
白い石の神殿のようなテアトロンと、瀬戸内海国立公園の自然豊かなすばらしい景観を楽しみながら、
音楽・演劇などの文化行事を満喫できます。
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小田和正・久保田利伸・ももクロもコンサートを開いていました。
大串狼煙場跡
大串岬の頂上に、直径約5mの円形上に、高さ約4mの地石を積み重ねた、見事な狼煙場跡。
狼煙場は、戦争の合図や事件が起こった知らせとして、火をたいて煙を上げ、
会場の警備と島や船との連絡機関として各地に設けられたもので、
東讃においては、安戸・蕪越(かぶらごし)・松原・三本松・鶴羽・馬が鼻
大串岬・鎌野などに設けられていた。
この狼煙場跡は江戸中期以降高松藩が構築したもので、ほぼ完全に残っている
大串岬の狼煙場跡は珍しく貴重なものである。
昭和59年に元の位置から北、約100mのこの地に移転修復した。
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長ぞわい観音
大串半島付近での海上交通の安全と大漁を願って作られた庵治石の観世音菩薩。
高さは7.2メートル(台座を含む)
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さぬきワイナリー
四国唯一のワイン工場である「さぬきワイナリー」は、
瀬戸内海が一望できる大串自然公園のなかにある。
地元で収穫されたぶどうはさぬきワイナリーに運ばれ、
それぞれのぶどうにあった、ぶどうそのものの良さを引き出す醸造方法で、
香り高く濃厚なワインに生まれかわる。
さぬきワインの購入や、製造工程の見学、試飲もできる。
今日は、ワイン入りソフトクリームだけ購入して帰る。
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ワカシャチ漫遊記第3章「讃岐富士 飯野山登山」2021年1月

2021年1月31日(日)今年初めての投稿です。
まだまだコロナ禍真っ只中。
なまった体を鍛えに讃岐富士 飯野山へ登山に行きました。
飯野山
飯野山(いいのやま)は、香川県の丸亀市と坂出市の境に位置する山で、
別名を讃岐富士と呼び、讃岐七富士のひとつに数えられている。
讃岐平野にそびえ、その整った形から地元住民の移動の目印となっている。
山頂には巨人伝説で伝えられる巨人おじょもの足跡や、
安養寺の奥之院薬師堂、不動尊などがある。
飯野山は、平成17年3月22日に「新日本百名山」に選定されました。
身近な低山として人気を集めており、本日は、歩きやすく登山者も多い、
飯野町ルートで登る。山頂まで2,200m 40分~1時間
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11:50 登山口へ。
案内板を確認し、駐車場から登山口へ。
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12:00 登山スタート
道幅も広く、道も整備されていて歩きやすい。
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12:20 4合目到着
眼下には、松山方面へ伸びる高速道路(高松道)が見える。
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12:25 5合目到着
5合目付近では、讃岐平野のため池がよく見えました。
香川ならではの風景です。
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12:55 9合目到着
9合目からの景色は、飯野山登山で一番良い景色です。
瀬戸内海塩飽諸島、瀬戸大橋が一望できます。
岡山の鷲羽山ハイランドの観覧所も見えました。
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13:10 山頂到着(所要時間70分)
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山頂で、簡単な食事と休憩を取り、おじょもの足跡を見に行く。
山頂には、ベンチやテーブル、仮設トイレも準備されている。
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おじょも伝説
昔々、「おじょも」という大男がおりました。
(「おじょも」とは、讃岐の方言で「巨人」のこと。)
その「おじょも」は山を造るのが得意で、
日本中を歩きながら山を造っていたそうです。
「讃岐の国にも、山を造ろう」と瀬戸の海をひとまたぎ。
「おむすびのようにけっこい(きれいな)山を造るぞ」と、
丁寧に丁寧に作ったのが飯野山です。
そして、できたばかりの飯野山と象頭山(こんぴらさんがある山です)に足をかけ、
おしっこをしてできたのが一級河川の土器川で、
飯野山の頂上にはその時の足跡が残っています。
思ったより小さな足跡でした。
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13:50 下山開始
帰りは、寄り道せずにまっすぐ駐車場まで戻りました。
途中、数匹の猫が見送ってくれました。
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14:30 駐車場到着
久々の登山、久々の健康的な日曜日でした。
早くコロナ終息を願うばかりです。

ワカシャチ漫遊記第3章「Anniversary20th企画第1弾 山陰旅」2020年11月 VOL.3

2020年11月2日(月)
一日中雨でした。
一部予定を変更して、鳥取に向かいました。
10:25 青山剛昌ふるさと館
青山剛昌ふるさと館(あおやまごうしょう ふるさとかん)は、
鳥取県東伯郡北栄町にあるマンガ・アニメミュージアム。
同町出身の漫画家で、『名探偵コナン』の原作者として
知られる青山剛昌の資料館である。
道の駅大栄に隣接し2007年3月18日に開館した。
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11:30 鳥取二十世紀梨記念館(なしっこ館)
鳥取二十世紀梨記念館なしっこ館は、鳥取県の倉吉市にある
梨をテーマとした日本で唯一の博物館である。
倉吉パークスクエアを構成する施設の一つで、2001年(平成13年)4月に開館した。
第一月曜日休館のため、中に入れなかった。
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12:30 白兎神社・白兎海岸
白兎神社は、大兎大明神あるいは兎の宮白兎大明神といわれ、
神話「因幡の白うさぎ」の舞台であり、古事記や日本書記に記される由緒明らかな神社です。
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ガマの穂
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御身洗池
神話にちなみ、皮膚病ややけどなどに効く神社として信仰されてきました。
御身洗池境内へ続く道沿いには、神話・因幡の白うさぎで、うさぎが傷口を洗い、
治療したといわれる「御身洗(みたらし)池」があり、季節を問わず水位が一定のため、
不減不増の池といわれています。
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拝殿
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菊座石
本殿の基礎に使われている6つの土台石。
そこには28弁の菊の紋章が刻まれていることから、菊座石と呼ばれています。
今でもその様子を見ることが出来るのは貴重な歴史です。
菊は皇室を意味しており、神社創建に皇室が関わっているのでは
と言われていますが、詳しいことは分かっていません。
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白兎海岸
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13:20 賀露港市場食堂
日本海に面している鳥取県は海の幸にも恵まれています。
賀露港・市場食堂は鳥取県賀露港のすぐそばにあり、
新鮮な海鮮物をまさかの税込1,000円を切る値段で食べることができます。
漁港近くにあるお魚屋さんだからこ実現できた、鮮度とボリューム、そしてお値段です。
先日、食べることができなかった、猛者えびも食べることができて感激でした。
もさ刺し
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もさ天丼
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いくらうに丼
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14:05 とっとり賀露かにっこ館
11月6日の蟹解禁の日は、混雑すること必至です。
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14:45 砂の美術館
砂の美術館は、2006年より鳥取県鳥取市の鳥取砂丘で
定期的に開催されている砂の彫刻(砂像)展示イベント・美術館。
ほぼ1年に一度、テーマを変えて展示を実施しており、
年明けから春の期間は次回作の準備・制作期間のため休館となる。
今年は、~砂で世界旅行 第13期展示~チェコ&スロバキア編~でした。
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2泊3日の工程は以上で終了。
帰る途中に、以前会社でお世話になって、既に会社は引退されている、
U元支店長が、鳥取県の智頭にいらっしゃるので、挨拶をして帰る。
話を聞けば、無農薬のお米を作っていらっしゃるそうです。
奥さんは畑でこれもまた無農薬で、たくさんの種類の野菜を育てられているそうです。
沢山のお土産をいただいて、また、おいしい手料理をごちそうになり、
香川へ帰りました。
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こんなに立派なお米をいただき感謝です。ありがとうございました。




ワカシャチ漫遊記第3章「Anniversary20th企画第1弾 山陰旅」2020年11月 VOL.2

2020年11月1日(日)
山陰の旅2日目。
昨夜は、米子市内に泊まり、今日は島根県安来市周辺を散策し、
再び米子へ戻り、皆生温泉に宿泊します。
今日のメインは、100名城の月山富田城と足立美術館です。
9:25 月山富田城
月山の一帯にあり、山陰・山陽十一州を手中に収めた
尼子氏歴代が本城とし山陰・山陽制覇の拠点とした月山富田城は、
その規模と難攻不落の城として、戦国時代屈指の要害でした。
また艱難(かんなん)辛苦に耐える悲運の武将・山中鹿介の出た城として有名です。
月山富田城は菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、
城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても、
主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き、守りを固め、
一度も落城しなかった天下の名城として知られています。
1934年に国の史跡に指定され、2006年には「日本名城100選」にも選ばれています。
月山富田城が最も華やかであったのは、京極氏の守護代であった尼子氏、
中でも尼子経久(つねひさ)の時代です。
経久は、下克上の戦国期に守護代の地位から守護京極政経に対抗して
戦国大名として独立しました。
経久は、この対立から富田城を追われましたが、文明18年(1486)に劇的な
富田城奪回に成功したと言う逸話が残されています。
その後出雲諸城はもちろん、天文10年(1541)に84歳で没するまでに
山陰・山陽まで領し、最も繁栄しました。
経久の後を継いだ尼子晴久の代には安芸の毛利元就に侵攻され、
永禄9年(1566)尼子義久の篭城戦の末富田城は開城しました。
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大土塁近くの駐車場より登っていきました。
急峻な月山を登ること約20分。
山頂に本丸、二ノ丸、三ノ丸などの大きな曲輪が
連なっており、ここからの眺望は素晴らしい。
本丸
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二ノ丸
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三ノ丸
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二ノ丸からの眺め
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山中御殿
月山山腹にある、城主の居館があったとみられる場所で、
周囲を石垣に囲まれた、広大な曲輪。
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大土塁
全長約130m、最大幅約20mを測る、富田城内では最大規模の土塁。
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花の壇
発掘調査で見つかった、2棟の建物跡。
花の壇は、敵の侵入の監視などが行われていた場所と考えられている。
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太鼓壇
太鼓壇は当時、時を知らせる太鼓櫓があった場所と伝わっています。
現在は、尼子再興のため尽力した山中鹿介幸盛の銅像が建立されている。
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千畳平
最も城下に面している曲輪の一つ。
周辺から鯱瓦や鬼瓦を含む大量の瓦が出土していることから、
張り出しの上には、櫓が建てられていたと考えられる。
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馬乗馬場
城下町に面した、長大な曲輪。
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11:40 そばうどん処尼子
月山富田城の麓に位置する「道の駅 広瀬・富田城」にある
お蕎麦とうどんのお食事処。
地元で、創業約70年の製麺所で、父が自家製粉にこだわって打つ麺を、
お店で息子が調理する暖かな味わいのお蕎麦屋さん。
お店のおススメの天ぷらそばは、旬の野菜の天ぷら約10種類が別盛で届き、
自分の好みでトッピングをします。
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尼子晴久の墓
尼子晴久の墓(宝篋印塔)は島根県安来市広瀬町富田、
月山富田城の麓に建立されています。
尼子晴久の墓案内板によると
「晴久は経久の孫で、父政久が出雲阿用で戦死したあと、
経久より家督を相続した猛将であった。
永禄5年(1562)城内において49歳で急死し、
そばに並んでいる墓は殉死した人々の墓石と思われる。」
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12:30 尼子経久像
島根県安来市の三日月公園にある尼子経久公の銅像です。
尼子氏は、持久が出雲守護佐々木京極氏の守護代として入部し、
その子清定は京極氏を支えて、守護代としての任務を遂行、
また、出雲国内を東奔西走して国内の諸豪族と戦った。
とくに清定の奮戦と両国経営における手腕は、
やがて戦国大名化してゆく出雲尼子氏の基礎を十二分に築いた。
しかし、清定の時代はいまだ守護京極氏の権威が背後にあったことは否めない。
そして文明九年(1477)、清定の子経久が二十歳の若さで尼子氏の家督を継ぐ。
この経久こそ、守護京極氏を排除し、出雲国内の諸豪族を従えて、
尼子氏の戦国大名化に成功した人物である。
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12:45 足立美術館
足立美術館は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館。
地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、
71歳のときに開館したものです。11月3日で開館から50年。
質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、
足立コレクションの柱となっている。
大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら
近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、
林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。
米国の専門誌による日本庭園ランキングで17年連続の日本一となっている。
創設者、足立全康氏の「庭園もまた一幅の絵画である」という
信念のもと細部まで手入れされた木々が季節ごとに違った表情を見せるが、
庭園の景観を守るために山の一部を買い取ったこともあるという。
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14:30 揖夜神社
揖屋神社は『出雲国風土記』に伊布夜(いふや)社として
記載されている古社で、中央でも重視された神社です。
主神祭は日本の国生み神話で有名な伊弉冉命(いざなみのみこと)です。
黄泉の国と縁の深い神社です。
また、出雲国造との関係が深い「意宇六社」
(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、
江戸時代から「六社参り」の参拝者が絶えず、
御遷宮には今でも国造の御奉仕があります。
本殿は大社造り、神座は出雲大社と反対で、
左から右に向かっているのが特徴です。
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14:45 黄泉比良坂(よもつひらさか)
古事記の神話に、黄泉の国(死者の国)と
現世の境目として登場するのが、黄泉比良坂です。
静かな木立の中に、黄泉の国への入り口をふさいだ
岩を思わせるような大きな岩が並び、神秘的な雰囲気を醸し出しています。
神話では、イザナギ命が先立った最愛の妻イザナミ命を慕い、
黄泉比良坂を通って黄泉の国を訪ねて行きます。
ところが変わり果てたイザナミ命の姿に驚いたイザナギ命は、
黄泉の軍勢を振り切り、命からがら現世に戻ってきます。
その時イザナギ命が黄泉の国への入り口をふさいだのが、
千引の岩(ちびきのいわ)であるとされています。
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伊賦夜坂(いぶやざか)
古事記によると、黄泉の国と現世の境が黄泉比良坂であり、
現在の東出雲町にある伊賦夜坂とされている。
「会いたい人にもう一度会える場所」として女優北川景子主演の
「瞬またたき」のロケ地にもなった。
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16:30 皆生温泉神社
戦国時代末期に命名された「海池(かいけ)村」の名が、
江戸時代末期、「皆生村」と改名統一されたことが「皆生」の名の由来とされています。
その昔、出雲の稲佐の浜から泡となって流れた魂たちが海岸に流れ着き、
新しい身体と心が蘇生(よみがえる=黄泉の国から帰る)されて皆、生まれ変わり、
このことから「皆生」と呼ぶようになったとの言い伝えも残っています。
皆生温泉神社のご祭神の一神である大国主命は、医療、薬(くすし)、
そして縁結びの神様でもあります。
皆生温泉は長寿にあやかれる有り難い温泉です。
「皆、生きる」の名前のとおり、手を合わせればきっと長寿のご利益があることでしょう。
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皆生風雅
2000坪の面積を誇る白砂青松の弓ヶ浜をイメージした
日本庭園は四季折々の顔で旅人を迎えます。
夜にはライトアップされた趣の異なる日本庭園をお愉しみ頂けます。
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地域共通クーポンもいただきました。
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夜は部屋食、かに会席でした。(ズワイガニ)
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VOL.3へ続く。

ワカシャチ漫遊記第3章「Anniversary20th企画第1弾 山陰旅」2020年10月 VOL.1

2020年10月31日(土)~11月2日(月)山陰を訪れました。
過去何度も、島根・鳥取は訪れていますが、
今年は、結婚20th(磁器婚式)という節目の年で、
少し贅沢な旅をしました。
現在もまだコロナ禍の中での旅で不便はありましたが、
GoToTravelやGoToEatなどの恩恵もありました。
10月31日(土)大山の紅葉。
11月6日の、松葉カニの解禁日を待たずして、山陰旅行を決行しました。
その理由は、大山の紅葉です。
大山の紅葉は、例年10月下旬から11月上旬が見頃を迎えます。
高松を6時50分出発し、まっすぐに大山を目指しました。
天気は快晴、渋滞を覚悟していましたが、スムーズに車が流れていたので、
途中、蒜山高原へ寄ってみました。
9:00 ひるぜんジャージーランド
蒜山の南側斜面中腹に位置する、ひるぜんジャージーランドは、
岡山県真庭市蒜山中福田にある蒜山酪農農業協同組合直営の消費者との交流施設。
蒜山と大山の景色が楽しめる場所です。
朝一訪れたので、まだ人は数人しかいませんでした。
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大山へは、岡山県と、鳥取県の県境を通る、蒜山大山スカイラインで向かいます。
9:30 鬼女台展望休憩所
標高900mの高台鬼女台(きめんだい)展望休憩所があり、ここからは、
北を見れば雄大にそびえる鳥取県の名峰・大山を軸にした烏ヶ山などの山並みが広がり、
振り向けば緑の高原地帯に描き出される蒜山一帯を一望することができます。
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10:00 鍵掛峠
標高約910mに位置する「鍵掛峠」は、
大山の南壁側がのぞめる絶景ポイントです。
手前に大山のシンボル・ブナ林の絨毯が広がり、
その奥に壁のように立ちはだかる大スケールの南壁。
露出する山肌と中腹から続く新緑や紅葉とのコントラストは
大山でも屈指の絶景ポイントとです。
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10:20 三の沢
大山登山口の一つ、三の沢。
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10:30 枡水高原
大山西側の裾野に位置し、なだらかな丘陵が続く「桝水高原」は、
冬場のスキー場ではお馴染みですが、爽やかな空気に包まれるグリーンシーズンは、
冬場、スキーで利用されるリフトが、天空リフトにモデルチェンジします。
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11:20 まつおか食堂
人気の大山蕎麦とおこわのおみせで少し早い昼食。
大山を正面に見る、カウンター席でいただきました。
「まつおか食堂」は、大山が誇るご当地料理「大山おこわ」の名店として知られています。
「大山おこわ」は氏神様の例祭や祭事には必ず食卓で作られていた
山懐の伝統食で、山陰を代表する郷土食の一つです。
人気メニューは、100%そば粉を使い、若主人が手打ちする「大山そば」とのセット。
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12:30 豪円山のろし台
豪円山スキー場ゲレンデから登山道を15分ほど上がると、
豪円山の「のろし台」に到着します。
ここから見る大山北壁は、足下に広がるスキー場のゲレンデの緑と相まって、
何とも牧歌的な、北欧風の風情。
山頂には大山寺中興の祖、豪円僧正の地蔵があり、こちらからは
ふもとの樹海を越えて日本海の遠望も楽しめます。
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12:55 大山寺
大山寺は、奈良時代養老年間(約1,300年前)金蓮上人に依って開山されました。
昭和の三年四度の火災に見舞われた本堂は昭和二十六年に再建されました。
現在も尚、山内寺院十ヶ院、重要文化財阿弥陀堂及び弥陀三尊を初め、
宝物類も数多く残され、実に山陰の名刹として、
天台でいう所謂鎮護国家の霊場として更に、
中国地方一円の人々から御先祖様に会える寺として崇敬を集めています。
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大山寺本堂
山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として栄えた大山寺。
平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むにつれて寺院が増え、
最盛期には100を超える寺院と3000人以上の僧兵をかかえるほど。
一大勢力として、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めていた。
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宝牛~牛に願いを!
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石畳の道
大山寺入り口から大神山神社奥宮まで、
約700mにわたって続く自然石で作られた参道。
別名“御幸参道”とも呼ばれるこの道は、
「日本一長い石畳の道」と書かれた看板を掲げる大山の象徴です。
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賽の河原と金門
昔、僧兵たちが修行したといわれる「僧兵荒行の岩」の前を過ぎると、
目の前に雄大で、険しい大山の北壁が広がります。
この地帯は通称「賽の河原」と呼ばれていて大山の
金門と元谷の間に位置し、安山岩が無数に堆積し石積みのケルン(塔)が
作られるなど周囲のロケーションも申し分なく、
絶好の眺望ポイントとして登山客に人気を博しています。
僧兵荒行の岩
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賽の河原
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金門
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大神山神社(おおがみやまじんじゃ)奥宮
大山寺から石畳の参道をあがったところに大神山神社奥宮があり、
社殿は全国最大級の壮大な権現造り。
もともとは僧が修験のために大山に登り、その道場として簡単な
遥拝所を設けるようになったのが始まりとされていますが、
創建・開創は出雲風土記、延喜式などに記載あるものの不明とされています。
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後ろ向き門
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14:50 大野池・大山レイクホテル
背景に秀峰大山の頂が顔を見せる小さな湖。
静かな湖の畔には、一周をのんびりと回れる遊歩道が設けられています。
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15:40 米子城址
米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、
さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、
この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、
外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という
大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、
例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、
このような天守をそなえたものは全国でも稀です。
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18:00 もも焼き旬魚 桜丸
今日の夕食は、地元の魚・肉料理をいただきました。
地魚・のどぐろ・大山鳥・鳥取牛です。
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本日の走行距離:230km     VOL.2へ続く。

ワカシャチ漫遊記第3章「香川県水族館めぐり」2020年10月

今月は、2週連続で四国の水族館をめぐりました。
2020年コロナ禍の中で、四国最大級の水族館、四国水族館が開館しました。
当初は2020年3月20日に開館する予定だったが、
四国4県居住者を対象に4月1日に先行オープン、
4月13日グランドオープンとなった。
本格的に営業が開始されたのは6月1日からでした。
10月になっても、まだ入場制限や、検温、マスク着用など
注意しながらの営業となっていました。
香川県には、四国水族館以外にも、新屋島水族館があります。
屋島には何度も足を運んでいましたが、水族館は初めて行きました。

2020年10月11日(日)
新屋島水族館
新屋島水族館は、1969年に四国電力の子会社などが出資し、
運営は、高松琴平電気鉄道の関連会社行い開館した。
しかし、2006年9月30日限りでいったん閉館。
その後、せとうち夢虫博物館株式会社に事業売却され、
12月23日に「新屋島水族館」として営業再開した。
せとうち夢虫博物館は、世界的水槽メーカーの日プラの子会社。
新屋島水族館は、標高約300mの屋島山上にある日本でも珍しい水族館で、
約130種類の生物が飼育されている。
日本での生態展示が当館と沖縄美ら海水族館のみである
アメリカマナティーも飼育されています。
駐車場より、直接水族館へ行かず、四国八十八箇所霊場の
第八十四番札所屋島寺経由で水族館へ向かいます。
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途中、獅子の霊厳展望台で夕景を眺めました。
突き出た断崖の岩が海に向かって吼えている獅子に見えることが
名の由来の景勝地が獅子の霊巌展望台(ししのれいがんてんぼうだい)。
高松市内、屋島と同じテーブルマウンテンの五色台、
男木島、女木島の島々を一望にします。
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定番の瓦投げも。
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16時20分到着、5時までの短時間での見学でした。
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小さな水族館ですが、アシカショーやペンギン行進など、
身近に動物を見ることができます。
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貴重なマナティー
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映えるクラゲ
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2020年10月18日(日)
四国水族館
四国最大級の水族館「四国水族館」では、四国水景をテーマに、
四方を海に囲まれた四国ならではの水中世界をダイナミックに再現。
「四国水族館」を体験すれば、四国を巡ってみたくなる仕掛けが
館内の随所に盛り込まれている。
また、時間帯や季節により変化する空間演出を取り入れた「次世代型水族館」。
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四国水族館は、なんといってもロケーションの良さにあります。
水族館からは、瀬戸大橋、瀬戸内海、ゴールドタワーがを間近に見ることができます。
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海面との高低差を減らしたプールでのプログラムは、
目の前の瀬戸内海と一体化しているかのような感覚で楽しむことができる。
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イルカのショーは、短い時間ですが、一日中練習風景を見ることができ、
特に夕焼けの時間帯は美しい。
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ペンギンの行進
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名物の巨大水槽
「綿津見(わたつみ)の景」では、四国最大となる
幅11m・高さ5.5m・水量650㎥の大水槽で、
スマやマアジなど約20種類の回遊魚を展示する。
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映えるクラゲ
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カブトガニ
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龍宮の景
プロジェクションマッピングの演出もきれい。
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18時の閉館時間までゆっくりと鑑賞しました。
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ワカシャチ漫遊記第3章「徳島県古墳めぐり」2020年10月

2020年10月3日(土)
徳島で古墳巡りをしました。
最近、徳島を散策するため地図を見ていると、
いたるところに古墳があることが気になっていました。
ネットで調べてみると
徳島県は日本でも有数の埋蔵文化財が多い県です。
その中でも弥生時代後期に、国内では唯一「水銀朱」が
採掘されていた阿南市の若杉山遺跡や、
国内最古の前方後円墳である、鳴門市の萩原2号墳があります。
とありました。
ということで、今日は1日かけて古墳を訪ねました。
鳴門板野古墳群
鳴門板野古墳群は、平成28年10月3日付けで、国指定の史跡に指定された。
古墳群の内訳
■萩原2号墓(鳴門市)
■天河別神社古墳群1号墳・同2号墳・同3号墳・同4号墳(鳴門市)
■宝幢寺古墳(鳴門市)
■大代古墳・同2号墳・同3号墳(鳴門市)
■愛宕山古墳1基(板野町)
今回の国史跡指定では、鳴門市域に所在する9基が対象となる。
池谷宝幢寺古墳(いけのたにほうどうじこふん)
宝幢寺裏山の尾根上にあります。
全長約42mの柄鏡式(えかがみしき)の前方後円墳です。
柄鏡式前方後円墳とは前方部が先端に向って広がらない、
柄鏡の柄のような形をした前方後円墳のことです。
前方後円墳の形から古墳時代前期と考えられます。
隣接する萩原墳墓群や天河別神社古墳群とともに、
鳴門・板野古墳群(仮称)を構成する中核的な古墳の一つ。
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天河別神社古墳群
古墳時代前期~中期に築造された10基以上で構成される古墳群。
1号墳は径約25m、高さ約2.5m、周濠をもつ2段築成の円墳で、
竪穴式石室から銅鏡(珠文鏡)や鉄剣、鉄斧、刀子、土師器などが出土している。
2号墳は1号墳とほぼ同規模の円墳で、3段築成で葺石を備える。
3号墳は全長約42mの前方後円墳、4号墳(前方後円墳?)は割竹形木棺を納めた
粘土槨から銅鏡(二神二獣鏡)が出土している。
高速道路トンネルの上あたりが古墳群になっている。
車の駐車ができなかったので、看板だけ撮影しました。
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萩原2号墓
標高42~43mの南北軸の尾根上に造られた径約21.2mの円丘部に、
長さ5.6mの突出部を伴う積石墳丘墓である。
墳丘を構成する積石は約80㎝である。
埋葬施設は東西主軸となる積石木槨構造で、箱形木棺を納めた
中心部の外周を囲む石積みには結晶片岩類を使用している。
副葬品として、破砕された銅鏡片(舶載内行花文鏡)が確認されている。
築造時期は、出土土器等から弥生時代終末期と考えられる。
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愛宕山古墳
全長約63.8mの前方後円墳。後円部径約44.2m・前方部長さ約19.6m、
2段築成で葺石・埴輪(円筒・朝顔・盾など)を備える。
後円部墳頂中央には結晶片岩の板石で構築された竪穴式石室が露出している。
出土遺物は玉類や銅鏃、鉄鏃、短甲片など。
築造時期は、4世紀後半~5世紀初頭の築造。
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阿波史跡公園
阿波史跡公園は、徳島市制100周年記念事業の一つとして
1993(平成5)年に開設された全体面積45.2ヘクタールの公園です。
周辺に気延山古墳群があり、3世紀末から7世紀中頃にかけての
古墳が百基以上点在する。
公園は、竪穴住居、高床倉庫など古代の邑が復元されている。
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宮谷古墳
全長37.5mの前方後円墳。
後円部径25m・前方部長さ12.5m、後円部は2段築成で葺石を備える。
後円部中央の竪穴式石室から重圏文鏡や玉類、鉄製武器などが出土したほか、
前方部から三角縁神獣鏡が出土している。
築造時期は、3世紀末~4世紀初頭の築造。
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藍の館
藍の館は、徳島県板野郡藍住町にある藍に関する博物館。
藍住町の歴史館。
大藍商であった旧奥村家屋敷の13棟の建物が、
11代当主奥村武夫氏から藍住町に寄附され、
併せて13万点におよぶ奥村家文書も町所有となったのを機に、
旧屋敷内に展示1号館を新設し平成元年8月1日に開館。
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公益財団法人徳島県埋蔵文化財センター
徳島県板野郡板野町の板野町歴史文化公園にある埋蔵文化財センター。
1995年(平成7年)に徳島県の埋蔵文化財保護の拠点として設置された。
常設展示室には県内の遺跡から出土した遺物が約1,600点展示されている。
古墳を散策した最後に、出出された遺物を身に寄りました。
徳島県の施設は、土日営業していました。(香川県は休み)
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西山谷2号墳移築石室
3世紀中頃に築造された円墳で、墳丘は消滅。
長さ4.7mの竪穴式石室のみ移築保存されています。
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水銀朱
古代の赤色顔料の水銀朱(すいぎんしゅ)。
土器に塗られたり、魔よけや防腐剤として木棺や石棺に塗られたり
古墳のなかにまかれたりして使われてきました。
本日学習したWORDです。
朱に関連して、朱を産するところの地名、「丹生」(にう)
〇「丹」(に)とは・・・水銀朱のこと。辰砂(しんしゃ)。
黄色みを帯びた赤色顔料。
〇「丹生」(にう)・・・丹を産する所の意味。
地名として各地に存在するが、いずれもかつては
神聖な「丹」を製造して流通させる拠点であったと考えられる。
丹生は「仁宇」とも書かれる。
加茂谷の隣町、那賀郡那賀町仁宇には「丹生神社」があり、
那賀町一帯は「仁宇谷」と呼ばれ、かつて辰砂から
丹(朱)を生産する地域であったことが分かる。
※本日は訪れていないが、
徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、
古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる
縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上や、
水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。
生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
本日のランチ
中国四川料理あらき
陳建一さんのお弟子さんの店。
小さい店でしたが、味は保証付き。
麻婆豆腐と五目そばをいただく。
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ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.3

2020年9月21日(月)敬老の日。
シルバーウイーク3日目:徳島散策
<訪れた徳島の神社>
阿波神社
徳島県鳴門市大麻町にある阿波神社は、1221年(承久3年)に
勃発した承久の乱の後、同年に土佐へ、さらに1223年(貞応2年)に
阿波に移り約9年滞在の後、1231年(寛喜3年)にこの地で崩御した
土御門天皇を御祭神として祀っている神社。
撫養街道に面した一画に土御門天皇火葬塚があり、そのすぐそばに参道がある。
1940年(昭和15年)に紀元二千六百年記念行事として、
それまでの丸山神社から社名を阿波神社に改め、造営を開始、
延べ7万人の勤労奉仕によって1943年(昭和18年)に
竣工したという立派な本殿が、よく整備された境内に建つ。
温情深く、争い事を好まず、人の喜び悲しみを理解し、歌を愛したという
土御門天皇の面影が残るかのように、実に穏やかで落ち着いた佇まいの神社だ。
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土御門天皇
建久9年、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。
立太子はしていなかった。同年3月3日即位。
事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。
しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、
退位を迫り、承元4年、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年上皇となる。
京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では
正治元年に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。
承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので
処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに
自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。
後に、より都に近い阿波国に移された。
鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、
守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。
その地は、現在の阿波市御所など諸説あり、特定されていない。
寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。享年37。
土御門天皇火葬塚
徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇を御祭神とする
阿波神社があり、境内に火葬塚がある。
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松木殿
松木神社:徳島県板野郡板野町下庄栖養。栖養行在所(松木殿)跡にある。
土御門上皇が住んでいたとされる場所です。
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<訪れた資料館他>
徳島私立考古資料館
徳島市立考古資料館は「みて、ふれて、つくって、古代ロマンあふれる館」という
キャッチコピーをかかげ、1998(平成10)年に開館した。
徳島市内で発掘された、縄文時代から平安時代にかけての考古資料を収蔵・保管し、
広く展示公開してある。
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鳴門市ドイツ館
鳴門市ドイツ館は、板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動の様子や、
地域の人々との交流の様子を展示した史料館です。
ドイツ兵たちが板東でどのような生活を送っていたのか、
地域の住民とどのように関わり合ったのか、
なぜドイツ館が創設されたのかなどを、具体的に知ることができます。
第九初演のエピソードが映像とロボットで語られる「第九シアター」は見所です。
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<徳島での食事・旬なもの>
焼きそば専門店突貫亭
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旬な鳴門金時と新高なし
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見どころ満載、食べ物もおいしい徳島の旅でした。
9月23日(火)秋分の日
完全休養日で、高松市内。
GO TO TRAVEL四国 4日間の走行距離
初日:高知 322km
2日目:愛媛 342km
3日目:徳島 230km
4日目:香川  16km
4日間合計: 910km

ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.2

2020年9月21日(月)敬老の日
3日目:徳島県
今日は徳島の歴史を体感するために1日散策しました。
<訪れた徳島県のお城>
撫養城(むやじょう)
築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。
その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、天正10年(1582年)、
長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を長宗我部元親の配下である
真下飛騨守が守備する。
天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、
徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた。
一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。
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撫養橋方面
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徳島市内方面
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勝瑞城跡(しょうずいじょう)
勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、
経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、
日本の中世史上重要な城跡である。
旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。
現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、
当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。
海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、
紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。
当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、
守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。
室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。
中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、
三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、
城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、
一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。
しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、
最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。
「司馬遼太郎と城を歩く」にも勝瑞城が出てくる。
「室町時代から戦国時代にかけて、阿波国を支配していた三好氏は、
この地を拠点に、畿内に進出。
一時は都を支配して天下を取る勢いも見せた。
その背景には、この豊かな穀倉地帯を領有する経済力と、
水軍を使って、兵力を迅速に動員できる抜群の機動力があった」
と記載されている。
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勝瑞城跡
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土塁
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<訪れた徳島のお寺>
見性寺(けんしょうじ)
徳島県板野郡藍住町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は竜音山。本尊は釈迦牟尼。
三好氏の菩提寺で敷地内には勝瑞城址が残っています。
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三好家墓所(三好之長・三好元長・三好実休・三好長治)
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観音寺(天塚)
鳴門市里浦町にある観音寺はご本尊を聖観世音菩薩として永禄元年(1558年)開山。
境内には約150種・450株の牡丹が植えられており、牡丹寺として皆様に親しまれています。
大塚製薬の大塚家菩提寺でもあります。
また、清少納言の祈願寺としても有名。
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天塚
清少納言の父 清原元輔が里浦の領主をしていた時代があります。
清少納言は正暦4年(993)28歳のとき、一条天皇の中宮定子(当時17歳)に仕えました。
長保2年(1,000)、清少納言35歳の時に皇后定子(当時24歳)が死亡。
定子の死後、流浪の旅に出た清少納言が里浦に流れ着いたという伝承があります。
観音寺より北へ約750m、鳴門の海岸近くの路地裏にひっそりとありました。
案内板によると、このあま塚と呼ばれるお堂には、清少納言の墓が安置されている。
地元の言い伝えでは、清少納言はこの地で亡くなったという。
しかもその最期は非常に悲惨なものであり、地元の漁師に辱めを受けた末に、
海に身を投げて死んだとされている。
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阿波国分寺
徳島県徳島市国府町矢野に位置する寺院。
四国八十八箇所霊場の第十五番札所。
札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例である。
国分寺はこのお寺の周囲218m四方に及ぶ範囲に存在していたと考えられている。
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阿波国分尼寺跡
741年(天平13年)、聖武天皇の発願によって、全国に国分寺と国分尼寺が造られ、
奈良の東大寺を総国分寺に、法華寺を総国分尼寺とした。
阿波国分尼寺跡は、鮎喰川によって形成された沖積平野に突き出した気延山南麓に位置する。
金堂・北門・北東西の外濠、雨落ち溝などの遺構が確認された。
出土遺物のうち、軒丸瓦・軒平瓦からみると創建の時期(奈良時代)を示すが、
土器は平安時代のものが多く、創建当初の施設が長くは続かなかったことを示している。
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興源寺
興源寺(こうげんじ)は、徳島県徳島市下助任町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
徳島藩主蜂須賀家の墓所があることで知られ、墓所は国の史跡に指定されている。
興源寺一帯は助任緑地として整備されている。
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家祖蜂須賀正勝(通称小六)の墓所
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霊山寺
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。
この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、
「同行二人」の長い旅となる。
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。
弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、
この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、
心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。
その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。
大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、
インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。
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VOL.3へ続く

ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.1

2020年9月19日(土)
4連休(シルバーウィーク)が始まりました。
コロナ禍の中、GOTOTRAVELも始まりました。
私は初日高知、2日目愛媛、3日目徳島と
四国3県へ行く予定を立てました。(宿泊なし)
初日:高知散策
早明浦ダム
早明浦ダム(さめうらダム)は、高知県長岡郡本山町と土佐郡土佐町にまたがる、
一級河川・吉野川本流上流部に建設されたダムです。
型式は重力式コンクリートダム、高さは106.0mで、総貯水容量は3億1600万㎥、
有効貯水容量は2億8,900万㎥、利水容量は1億7300万㎥、
吉野川水系における水資源施設の中核をなす四国地方最大のダムです。
吉野川の治水と四国地方全域の利水を目的に建設され、
このダムの水運用は四国地方の経済・市民生活に極めて多大な影響を及ぼします。
このため「四国のいのち」とも呼ばれ、四国地方の心臓的な役割を果たします。
2005年(平成17年)には本山町・土佐町・大川村の推薦により
財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。
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汗見川
汗見川は下流域から立野、坂本、沢ケ内、屋所、瓜生野、七戸の
6集落から成り立っている地域です。
エメラルドグリーンに輝く清流や、流域にみられる学術的に貴重な変成岩類、
白髪山の根下がりヒノキや白骨林など、自然の見どころが満載です。
「あせみがわ」と読まれる方が多いですが、「あせみかわ」が正しい読み方です。
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枕状溶岩
約1億年前の海底火山で噴出した溶岩が固まった、珍しい藍色の
枕状溶岩と枕状礫岩の露顕が見られ、枕状溶岩は、
高知県の天然記念物に指定されています。
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亀岩
亀の形に似た巨岩のあることから、このあたりは「亀岩の水辺」と呼ばれ、
四国の水辺八十八箇所に選ばれています。
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ゴトゴト石
大きな石なのに押せば簡単にゴトゴトと揺れる。
けれどどんなに押しても決して落ちない不思議な石です。
いつの頃からか「落ちない祈願」をするために、
願掛けに受験生などが訪れるようになりました。
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近くには山姥の滝(落差30m)もあります。
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ゴトゴト石までの道は非常に狭いため要注意です。
先日も某旅番組で取り上げられたので、人が多いかと思いましたが、
今日は、1台のみすれ違っただけでした。
駐車スペースは5台くらいだと思います。
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ひろめ市場
ひろめ市場は、高知市中心部・帯屋町(おびやまち)アーケードの西端にあります。
ここは、昼間から地元客と観光客が入り乱れて酒を酌み交わすという、
いかにも酒好きな県民が多いといわれる高知県らしい名所です。
1998年のオープン以来、いまだ客足が衰えない人気スポットです。
ひろめ市場は、郷土料理をはじめとする和洋中様々な飲食店約40、
お土産屋や洋服店などの物販店約20が軒を連ねる屋台村風商店街です。
3時ごろに行きましたが、コロナ禍とは思えないくらい人が沢山いました。
ひとまず、明神丸のカツオのたたきを塩でいただきました。
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高知県立高知城歴史博物館
2017年3月、高知城のふもとに開館。
土佐藩主山内家伝来の貴重な資料を中心に、土佐藩・高知県ゆかりの
歴史資料の数々を収蔵・展示する本格的な博物館です。
実物資料の展示を中心に、体験型展示や映像、メディア機器などで、
大人から子どもまで楽しみながら歴史を学ぶことができます。
また、展望ロビーから望む高知城の姿は必見です。
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高知城
高知城は、江戸時代に建造された天守や本丸御殿(天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみ)、
追手門等が現存し(天守と追手門が両方現存している城は全国で弘前城・丸亀城・高知城の3ヶ所)、
城跡は国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている。
今回は入場はしなかった。
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山内神社
明治4年(1871年)創立。境内には山内容堂の銅像があり、
土佐山内家の歴代藩主と初代一豊夫人を祀る神社です。
東側には山内容堂邸跡が鷹匠公園として整備されている。
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土佐山内家宝物資料館は、高知城歴史博物館ができたため、
平成28年3月31日に閉館したそうです。
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はりまや橋
よさこい節にも歌われ、純信・お馬の恋物語でも知られるはりまや橋は、
江戸時代初期、堀川を隔ててすんでいた播磨屋と櫃屋が互いの往来のために
橋を架けたのが「はりまや橋」の名の由来といわれています。
お土産物を買って食事して帰りました。
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本日の夕食
鳥心本店でチキンナンバン定食。
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2020年9月20日(日)
2日目:愛媛松山
今日は久々にソフトボールの練習に参加のため松山へ。
ソフトボールの練習の時は必ず、寄り道して帰ります。
今日は、にちょうで豚丼を食べて、石鎚SAの椿温泉に入り、
お土産のスイーツを買って帰るいつものルーティーン。
途中、2015年に車を購入して5年、77,777km走行達成しました。
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さすがに今日は、筋肉痛で疲れました。
明日の徳島のために早めの就寝。



ワカシャチ漫遊記第3章「源平合戦の郷散策(香川県牟礼町)」2020年9月 VOL.2

2020年9月13日(日)/
源平合戦のゆかりの地・屋島を散策。
後半は、遊鶴亭展望台を下山した後、
牟礼町のゆかりの地を散策しました。
源平合戦屋島の戦い
1185年、平氏軍が本拠地としていた讃岐の国屋島へ
源義経ら源氏軍が攻め入り、屋島の戦いが起こりました。
平家物語』と平家物語の異本として知られる『源平盛衰記』で
伝説として語り継がれているのが「扇の的」と「弓流し」です。
現在、散策した場所は海ではないが、この伝説を体感できます。
義経の弓流し
義経の弓流しは、平安時代末期の源平合戦の中で有名な逸話のひとつです。
平家物語によると、この戦いで、義経は自らの弓を誤って海に流してしまいます。
義経は部下たちが止めるのを聞かず、敵兵の行き交う沖まで行き、
弓を拾ってきました。
戻った義経は「もっと強い弓ならいざ知らず、源氏の大将がこのような
弱い弓を使っていることを平氏に知られては、末代までの恥となる。
そのため命を顧みず拾いに行ったのだ。」と語り、
部下たちは感銘を受けたそうです。
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那須与一扇の的
義経によって追い詰められた平家軍は、源氏軍が意外と少ないことに気付くと
船を岸に寄せて弓矢での攻撃を開始しました。
激しい戦いでしたが、日が暮れるとともに休戦状態になります。
平家軍は小舟に美しい女性を乗せ、「竿の先の扇の的を射よ」と挑発しました。
いくら休戦中とはいえ、これを外せば源氏の名に傷がついてしまいます。
義経は腕の良い武士を探し、畠山重忠に的を射るよう命じました。
しかし重忠はこれを辞退し、代わりに下野国の武士・那須十郎を推薦します。
ところが十郎も傷が癒えないからとやはり辞退し、
弟の那須与一を推薦したのです。
抜擢された那須与一は、仕方なくこれを引き受けることとなります。
与一は馬に乗って海に入ると、弓を構えて「南無八幡大菩薩」と神仏に祈りました。
そして、射損じたら切腹する覚悟で矢を放ったのです。
皆が見守る中で放たれた矢は、見事に扇の柄を射抜きました。
空中を舞い上がった扇は春風に揺られ、その後そっと海に落ちたのです。
このシーンは『平家物語』の名場面「扇の的」として知られています。
この様子を見た平家は、敵ながら天晴れと舟の端を叩いて感嘆しました。
また、陸にいた源氏も弓の容器を叩きながら歓喜したのです。
敵同士とはいえ、その場は大いに盛り上がりました。
祈り岩
与一が弓を射る前に神仏に祈りを捧げた場所であるとされる。
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駒立岩
祈り岩の北西数10歩の川中にある巨石で、潮が引くと頭を出す。
那須与一がこの石上に馬を止めて、扇の的を射たといわれている。
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総門跡
神櫛王墓の北約200メートル、旧庵治街道の傍らにある。
寿永2年(西暦1183年)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、
屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。
この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。
総門は、その遺跡である。
源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、
故に里人はここを源氏の総門という。
高松藩主松平頼重(英公)は衡門(かぶきもん=冠木門)を建ててその古跡を表した。
現在の総門の南東に木戸(城戸)と呼ばれる集落がある。
そこで、ここに総門があったのではないかとする説がある。
英公は世人に広く知らせるため、今の街道筋に建てたのではないかといわれている。
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射落畠
総門の南側の細道を東に数10歩行き、
県道八栗・庵治線に突きあたる手前右側にある。
佐藤継信が義経の身代わりとなって射落とされたと伝わる場所である。
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半日の散策ではあったが、盛りだくさんの内容でした。



ワカシャチ漫遊記第3章「源平合戦の郷散策(香川県牟礼町)」2020年9月 VOL.1

2020年9月13日(日)/
今週は、天気が崩れると聞いていたが、なんとか持ち直し、
雨が降らなかったので、高松市の牟礼町を散策しました。
牟礼町
牟礼町は、高松市の東部に隣接し、北は霊峰五剣山を隔てて庵治町と接し、
また、西は屋島檀ノ浦、東は志度湾にも面しています。
屋島と五剣山に囲まれたこの地は、古くから天然の要害として重要視され、
平安末期、源氏に都を追われた平家は、屋島檀ノ浦に皇居を、
牟礼に総門を建て、都奪還のための拠点としました。
源義経の軍勢との武者の誉れを賭けた戦いは、源平合戦屋島の戦いと呼ばれ、
那須与一のエピソードを始め、町内には、数多くの源平史跡が残されています。
また、庵治石の産地として石材業が盛んで、水晶と同じ硬度を持つ庵治石を
加工するために培われてきた職人の技術は、牟礼町にアトリエを構えた
世界的な彫刻家イサム・ノグチなど、内外から高い評価を得てきました。
見どころの多い、牟礼町を半日散策しました。
義経鞍掛松
寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、
源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(現高松町)の里に入り、
屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
其の時の大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
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菜切地蔵
神櫛王墓南方の丘の上にある。
地蔵堂の中央正面に地蔵菩薩の石彫、右側に室町時代以後と考えられる
五輪塔の変形的なもの、左側に十一面観音の石彫を安置している。
土地の人は右側の石塔を地蔵と呼んでおり、弁慶が地蔵の背中を
まな板がわりにして大長刀で菜を切ったと伝えている。
この辺一帯の集落名を今も菜切と称している。
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長刀泉
現状は石組みの井戸跡としてあるもので、立地において「菜切地蔵」、
「瓜生が丘」の周辺に位置することから、源氏軍の陣跡に比定されている。
また、『三代物語』において、「武蔵坊弁慶屓尖刀鐓(なぎなたのいしづき)
を以って、井を穿つ、しばらくして清水湧く。云々」とあり、
弁慶の武勇とともに、海辺の陣にあって炊事用水に苦慮した様子を伝えている。
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神櫛王(かみくしおう)墓
神櫛皇子(生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「神櫛皇子」、『古事記』では「神櫛王」、
他文献では「神櫛別命」「神櫛命」「五十香彦命」とも表記される。
第12代景行天皇の皇子である。
墓は、宮内庁により香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓に治定されている。
宮内庁上の形式は上円下方墳。
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菊王丸の墓
源平合戦のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして
能登守教経の強弓に倒れました。
そのとき教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、
そうはさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。
教経は、菊王丸をあわれんでこの地に葬ったと伝えられています。
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安徳天皇社
寿永2(1183)年、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
ここは、檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、
東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、
行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
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佐藤継信の墓
継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、
平家の武将能登の守教経の強弓により、大将義経の命危ういとみて、
義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために
寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、
合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、
屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
また、墓は牟礼町王墓にも残っています。
遍路道の佐藤継信の墓
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神櫛王墓横の佐藤継信の墓・大夫黒の墓
大夫黒(たいふくろ)は、源義経が一ノ谷の戦いの鵯越の逆落しで乗馬した愛馬。
『吾妻鏡』によると、後白河院の厩にいた名馬で、源義経が賜り、
戦場へ出る度に乗馬していたのだという。
屋島の戦いで佐藤継信が討死すると、義経は供養してくれた僧へ礼として贈り、
死後は継信のそばに葬られたのだと伝えられている。
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長崎の鼻・長崎鼻砲台跡
高松市の屋島最北端、瀬戸内海に突き出した岬が長崎の鼻。
テーブル状になった典型的なメサ地形の屋島は、古代に屋嶋城(やしまのき)が築かれ、
源平合戦では平家の水軍の拠点となりました。
嘉永6年(1853年)のペリー以来、外国船の監視と防備の必要性が高まり、
讃岐国でも、幕末の文久3年(1863年)、幕府の命を受けて11代高松藩主(最後の藩主)
松平頼聰(まつだいらよりとし=将軍・徳川慶喜とは従兄弟)が
瀬戸内と高松湊の防備のため、長崎の鼻に砲台を築いています。
現在、砲台の上段部分が駐車場になっており、中段、下段の砲台部分へは下ることに。
長崎鼻台場に備えられた大砲は、二十六斤砲と十二斤砲が合計6門でした。
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屋島
屋島は、もとは高松平野から隔たれた島でした。
屋島の山頂部は平坦で、その端は讃岐岩質安山岩
(古銅輝石・普通輝石安山岩)の急崖に取り囲まれたメサです。
屋島は山頂部の平坦面が急崖によって囲まれたメサとして、
昭和 9 年に国の天然記念物に指定されました。
今日は、屋島の北嶺登山道から820mの遊鶴亭まで歩いてみました。
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屋島洞窟
屋島の北嶺に分布する層厚約 20mの火山礫凝灰岩および凝
灰質砂岩は、屋島の黒石と呼ばれ、豊島石と同じ材質のため、
江戸時代から石材として採掘されてきました。凝灰岩層の上方
には讃岐岩質安山岩が急崖をつくっているため、横穴を掘って
採掘し、その穴丁場が洞窟となって残っています。
登山開始から440mの地点に屋島洞窟がありました。
まだまだ急登が続きます。
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遊鶴亭
屋島北嶺にある展望台で、獅子の霊巌、談古嶺と並ぶ
屋島三大展望台の一つが屋島北嶺の遊鶴亭展望台です。
大正12年、香淳皇后が命名したもの。
テーブルマウンテン(メサ地形)となった屋島台地の北端に位置するため、
瀬戸内海方面の眺望が広がります。
遊鶴亭展望台からは、ぐるり320度を見渡すことが可能で、
瀬戸内海に浮かぶ島々や、源平合戦で有名な「船隠し」も
俯瞰で見ることができます。
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高松駅方面
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男木島・女木島方面
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小豆島・庵治方面
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猛暑続きで、連日35度を超えていましたが、
今日は30度前後と比較的涼しくなり活動しやすくなってきた。
後半へ続く。

ワカシャチ漫遊記第3章「香川県島めぐり 本島」2020年8月

2020年8月29日(土)
香川県丸亀市本島へ行ってきました。
本島
本島(ほんじま)は、香川県丸亀市に属する島です。
塩飽(しわく)諸島の中心で、四人の年寄が勤番で政務を行った
塩飽勤番所、敵襲からの防御を考え細い路地が入り組んだ
古い町並みが残るかつての塩飽水軍の本拠「笠島」などが見られる。
今も塩飽諸島の中で最も人口が多い。
塩飽諸島
塩飽諸島(しわくしょとう)は、瀬戸内海に浮かぶ諸島。
塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、瀬戸内海の中でも、
岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて
28の島々から成り、名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。
戦国時代には塩飽水軍(しわくすいぐん)が活躍し、
江戸時代は人名(にんみょう)による自治が行われたことで有名。
人名制(にんみょうせい)
16世紀後半、信長が航行特権を与えたのを契機に
豊臣秀吉から検地高1250石の領知を認められた人名は
塩飽島中船方650人のことで、その数は本島の泊、笠島浦をはじめ
塩飽諸島の20の浦々に90から7の範囲で配分されていた。
大名でも小名でもない船方衆に1250石を領知
租税を免じ、自治を許す破格の待遇だったことがよくわかります。
江戸時代、人名は徳川幕府の御用船方として船役・加子(かこ)役を
負担する代りに島の領知権を安堵され,周辺海域の漁場の権益も保証された。
本島へのアクセス
丸亀港より、本島汽船フェリーで35分。
10:40発のフェリーで本島へわたりました。(11:15着)
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真夏の炎天下でしたが、歩いて散策することにしました。
本島港周辺
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本島パークセンター
本島の観光案内所で喫茶店も併設されています。
本島の情報を収集できます。
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日本遺産
日本遺産とは、文化庁が地域の歴史的魅力や特色を通じて
文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として認定し
地域活性化を目指す取組です。
「知ってる!? 悠久の時が流れる石の島
~海を越え,日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」
として笠岡市・丸亀市・小豆島町・土庄町の2市2町に
日本遺産認定されました。
〇ストーリーの概要
瀬戸内備讃諸島の花崗岩と石切り技術は、長きにわたり日本の建築文化を支えてきた。
日本の近代化を象徴する日本銀行本店本館などの西洋建築
また古くは近世城郭の代表である大坂城の石垣など
日本のランドマークとなる建造物が、ここから切り出された石で築かれている。
島々には、400年にわたって巨石を切り、加工し、海を通じて運び
石と共に生きてきた人たちの希有な産業文化が息づいている。
世紀を越えて石を切り出した丁場(ちょうば)は
独特の壮観な景観を形成し、船を操り巨石を運んだ民は
富と迷路のような集落を遺した。
今なお、石にまつわる信仰や生活文化、芸能が継承されている。
本島では高無坊山の石切場、年寄の墓、木烏神社鳥居
勤番所や笠島まち並みが対象です。
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Vertrek「出航」/石井章
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塩飽勤番所
江⼾時代、塩飽領を統治する「年寄」が交代で政務を執る役所として建築された建物です。
「勤番所」と呼ばれる建物は全国でもここだけで、国の史跡に指定されています。
建物内には、織⽥信⻑・豊⾂秀吉・徳川家康らが、その当時領地を認めた朱印状など
塩飽⽔軍に関わる史料が展⽰されています。
また咸臨丸の乗組員には多く塩飽諸島出身者がおり
その乗組員の遺品や咸臨丸の模型なども展示されている。
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受付のおばさんから、冷たいお茶の接待を受けました。
吉田邸
塩飽大工が最後に作った家とされる「吉田邸」。
国の重要伝統的建造物群保存地区である笠島の古い町並みの中にたたずむ邸宅は
細部に塩飽大工の技が垣間見られるぜいたくな造り。
本島のかつての繁栄をしのぶことができる。
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入縁側のすぐ左にあるトイレは陶磁器製。(有田焼)
ここは来客用のトイレであり、通常使うことは無かったそうです。
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吉田邸が全国的に有名なったのが、テレビ東京の「なんでも鑑定団」。
吉田さんが所有していた江戸時代の人気絵師・伊藤若冲(1716〜1800年)の
墨画が本物であるという鑑定を受け、評価額1500万円が示されたのです。
展示はレプリカですが、1年に何度かは本物を展示するそうです。
吉田さんが家の中を紹介してくれました。
家の床の間にレプリカの掛け軸があります。
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墨絵のタオル2枚購入。
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吾亦紅(われもこう)
古い町並みの古民家カフェ。
コロナ禍で人数制限をして対応されていた。
予約もせずに無理やり入れてもらった。
食後、奥さんと話ができ、本島の歴史などを教えてもらう。
まだまだ島のPRが足りないと嘆いておられた。
今日、島を観光しているが、観光客はほかに1組いたかどうかで
午後からは、ほかの観光客に会うことはなかった。
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昼食後は笠島集落散策
笠島集落
国選定の伝統的建造物群保存地区。
江戸末期から戦前にかけての建物が残る。
迷路のような町並みに、千本格子の出窓を配した家々や
しっくい塗りの白壁が連なり、塩飽大工の技術力の高さを随所で感じさせる。
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海岸に出て、海岸線を歩き、瀬戸大橋を見る。
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「水の下の空」/アレクサンドル・ポノマリョフ
遠見山展望台から瀬戸大橋を見る。
標高110メートルの遠見山頂上までの散策遊歩道からは
備讃瀬戸に浮かぶ多島美を望むことができる。
また頂上からの眺望は本島一であり瀬戸大橋の全景を見渡せる
絶好のポイントとなっている。
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長徳寺
平安時代の⻑徳年間(995〜998年)に開かれたと伝わる寺。
境内にある樹齢450年余のモッコクの⽊は
樹⾼約9m、枝張り14〜15mと太い枝が四⽅に広がっており
モッコクの中でも珍しい樹形をしています。
⾹川県の保存⽊に指定されています。
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17:10本島港発フェリーで丸亀に戻る。
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炎天下の観光終わり。

ワカシャチ漫遊記第3章「崇徳天皇ゆかりの地散策(坂出市)」2020年8月 VOL.2

2020年8月23日(日)
崇徳天皇ゆかりの地巡り2日目。
今日は朝から精力的にゆかりの地を訪ねました。
高家神社
崇徳上皇崩御後、白峰山に遺体を運ぶ途中高屋村阿気に棺をおろして休めた時に
急に雨風雷鳴が起こり棺をおいた六角の石に少し血がこぼれたといわれています。
葬祭後、里の人は、当社に崇徳上皇を合祀し、六角の石も当社に納めました。
それが当社が「血の宮」と言われている理由です。
当社の御祭神は、天道根命、大鞆和気尊(応神天皇)
待賢門院(上皇の生母)そして崇徳上皇。
崇徳院の御霊はその昔、早良親王、菅原道真とともに大変恐れられていました。
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青海神社
崇徳上皇の遺体は白峯山で荼毘に付されたのであるが、さらにその時に怪異が起こった。
今度は荼毘の時に出た煙が、山のふもとのある一ヶ所に溜まって動かなくなった。
一説によると、その煙は輪を成し、その中に天皇尊号の文字が現れたとも伝わっている。
また煙が消えた場所には上皇のお気に入りの玉があったともされる。
その後、この地にも崇徳上皇の霊を慰める青海神社が建立され
(煙の宮)と呼ばれることになる(玉は社宝として保管されているらしい)。
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西行法師の道
崇徳上皇が讃岐で没して3年後に西行法師が御陵を詣でたとされる
青海神社から白峯御陵までのみちのり1.34キロを「西行法師の道」として平成15年に整備。
歌碑88基と石灯籠93基がある。
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松山の津
保元元年(1156年)7月、保元の乱に敗れた崇徳上皇は
最初に松山の津というところに着船したと伝えられています。
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長命寺跡
長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ
長曽我部襲来の際の兵火により消失したと伝えられています。
雲井御所はこの長命寺であったと記され、崇徳上皇の仮御所として
自邸では不敬があってはならないと考えた綾高遠が
すぐ傍の長命寺に移されたのだと伝えています。
上皇は、この長命寺境内に近くの武士を集めて射芸を楽しまれたり
歌を詠まれたりして過ごされました。
現在は、大正六年に建立された長命寺跡碑が、田の中に一本だけまっすぐ建っていて
かつての長命寺を偲ぶよすがとなっています。
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白峰宮(しろみねぐう)
崇徳上皇を祀るこの神社は、上皇の崩御の後に二条天皇によって
社殿が建てられたと伝えられています。
上皇の遺体が野澤井の水に浸されてから白峰山にて荼毘に付されるまでの間
毎夜、付近の霊木に神光があったそうで、当時の社殿はその場所に
設けられていたそうです。
このため、「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれるようになったそうです。
上皇崩御の後、高倉天皇は「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳天皇」と
追謚(ついし)され、稲税を納めたと伝えられています。
また源頼朝も稲税を納めて、下乗の立礼を建てたとされますが
残念ながら当時の社殿は天正年間に焼失してしまいました。
現在の社殿はその後に再建されたもので、今も周辺の人々から手厚く祀られ
「天皇さん」の名称で親しまれています。
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鼓岡神社
崇徳上皇が御所とされた木の丸殿があった場所であり
崩御の後、小さな祠を建てて祀られたものです。
神社の傍らに建つ擬古堂(ぎこどう)は、崇徳上皇の行在所址にその御殿
木ノ 丸殿を模して大正2年に建てられたものです。 
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擬古堂
保元三年(1158年)ごろ、崇徳上皇は雲井御所から府中の鼓岡の木ノ丸殿に移られました。
木ノ丸殿とは、木の丸太で造った御所といった意味合いで、
御所としては粗末な造りではなかったかと考えられています。
大正二年に崇徳上皇の750年祭に合わせて、鼓岡神社の石段を登った
右手に記念建造物が建設されました。
かつての木ノ丸殿を偲ぶといったことから、擬古堂と呼ばれ、屋根など古風な造りの外観から
少しでも当時を思い浮かべることができるように造られています。
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ほととぎす塚
鼓岡神社の石段の右手には小さな五輪塔が2つほどあります。
これは上皇が鼓岡で過ごされていたころ、ある日ホトトギスの声を聞かれて
都を深く思い出され、 『なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす』
とお詠みになられたところ、これを聞いたホトトギスは
自らさえずるのをやめたという言い伝えによるものです。
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内裏泉
近代の大干ばつにも枯れなかったという霊泉で、崇徳上皇が木ノ丸殿に住んでいた際
飲料用の井戸として使われたと伝えられています。
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菊塚
崇徳上皇が雲井御所で過ごされていたときに、
綾の局との間に皇子と皇女が誕生しました。
上皇はこの皇子を顕末(あきすえ)と名付けられ、菊の紋をつけて綾の局の父
綾高遠に賜り、綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。
この皇子の墓は、府中町鼓岡の北にあり、菊塚の名称で呼ばれています。
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わん塚
鼓岡神社の北方、菊塚の北東の畑の中に、大きい一枚の岩に
「(わん)塚」と刻まれた自然石が残っており、崇徳上皇が使用された
食器を埋めた場所との由来があります。
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姫塚
雲井御所にお住まいになられたころ、崇徳上皇を気付かった綾高遠は
何かと不便があってはならないと、自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に
上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。
上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが、幼くして亡くなられたと伝えられます。
この姫塚はその皇女の墓であるとされています。
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柳田
JR予讃線沿いに,小さな石碑の建っているところがあります。
ここは柳田といわれ、崇徳上皇が殺害された所だといわれています。
崇徳上皇は長寛二年に崩御しますが、その死因について
『保元物語』や『平家物語』等には特に記述がありません。
ただし、江戸時代の地誌である『讃州府誌(さんしゅうふし)』には二条天皇が
上皇の暗殺を命じ、三木近安(みきちかやす)という武士が鼓岡を
襲撃したということが記されています。
近安の襲撃を逃れた上皇は、大きな柳の樹の穴に隠れましたが
その隠れた姿が池の水面に映り、見つかって殺害されたとされています。
その後、この地に柳を植えても、枯れるばかりで決して育たなったそうです。
現在は、草が沢山あり、碑を見つけることができなかった。
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坂出市には、崇徳天皇ゆかりの地が沢山あったが
かなり荒廃している場所・看板も多くあった。
もっと、しっかり、管理してPRできれば
とても興味深く良い観光資源となるはずです。
以下の2カ所は、崇徳天皇のゆかりの地ではないが、
同じエリアにある、押さえておきたいスポットです。
讃岐国分跡
坂出市にはかつて讃岐国の国府(国庁)があったとされています。
詳しい場所はいまだ分かっていませんが、,府中町の本村地区に
”聖堂”や”正倉””印鑰(いんやく)””垣ノ内(かきのうち)”といった
地名が残されてることなどから、この付近にあったと想定されています。
国府は鎌倉時代にはその機能を失ってしまいましたが、讃岐国司として任命され
この地を訪れた貴族の中に、学問の神様として知られる菅原道真(すがわらのみちざね)がいます。
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開法寺塔跡
出土の瓦や塔の様式から、白鳳時代の寺跡と考えられ、県下でも最古の寺の一つとされています。
昭和45年に鐘つき堂と伝承のあった当地の調査が実施され、創建当初の礎石や塔基壇が発見されて
県下で最もよく旧態を残している塔址として県指定となっています。
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坂出市は、讃岐国の中心地であったことがよく分かった。
(国府は、奈良時代に全国の国ごとに置かれた役所で、平安時代末期には廃絶する)

ワカシャチ漫遊記第3章「崇徳天皇ゆかりの地散策(坂出市)」2020年8月 VOL.1

2020年8月22日(土)23日(日)
香川県坂出市の崇徳上皇ゆかりの地を散策しました。
県外移動自粛中のコロナ禍の中、8月は県内中心の散策となりました。
崇徳天皇
崇徳天皇(すとくてんのう)は日本の第75代天皇で、鳥羽天皇の第一皇子。
平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で
後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。
讃岐に流されたのちの崇徳天皇
保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐へ流され、林田の雲井御所(くもいごしょ)で
約三年過ごした後、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)にある
木ノ丸殿(このまるでん)に移られました。
木ノ丸殿での上皇は、一日中部屋にこもり、書物を読んだりお経を唱えたりしていましたが
一心に毎日お経を写し始め、三年もかかり多数の写経をし、下記の和歌を添え京都に送りました。
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」
崇徳上皇としては、後の世のためを思い一心に写したお経だったため
讃岐のような田舎へ置いておくのがつらく、都に近い八幡山か高野山か
もし許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと思っていました。
しかし、京都の朝廷は、罪人の写したお経はよいお経のはずがないと受け取らず
崇徳上皇のもとに送り返してしまいました。
崇徳上皇はたいへん悲しまれたと云われています。
崇徳上皇は、権力の座を賭けた政争「保元の乱」の首謀者として
讃岐国(香川県)に流され、この地で亡くなった悲運の帝です。
百人一首にも選ばれるほどの和歌の才能を持ちながら波乱の一生を終え
のちに怨霊になって平清盛らを悩ませたと言われる崇徳上皇ゆかりの地を訪ねます。
白峯御陵
1164年8月26日、46歳で崩御された崇徳上皇は、遺体を八十場の泉に浸さた後
9月16日に白峰山で荼毘に付され、その場に葬られました。
お墓である御陵は、積み石の方墳であったといわれています。
都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒廃していたといわれています。
初代高松藩主松平頼重(まつだいらよりしげ)、五代頼恭(よりたか)、
十一代頼聡(よりとし)らにより、修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど
今日みられるように整備されました。
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勅額門
頓証寺の随身門であり、左右に保元の乱で崇徳天皇を守った
源為義・為朝父子の武将像が置かれていました。
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頓証寺殿
崇徳上皇の霊廟であり、建久2年(1191)遠江阿闍利章実が鼓岡の行在所を移して
上皇の自画像を奉安し、頓証菩提を弔ったのにはじまるといわれています。
現在の建物は延宝8年(1680)高松藩主松平頼重・頼常が再建したものです。
拝殿は檜皮葺き・前面蔀戸・庭前に橘と桜を植えて、御所の建物を真似ています。
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西行法師石像
保元物語によると、仁安3年(1168)白峯御陵(崇徳院)の御陵に詣でた西行は
陵前に座ってお経を繰り返し読み、「よしや君むかしの玉の床とても
かからんのちは何にかはせん」の歌を奉ったと云います。
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雲井御所跡
保元の乱に敗れ、讃岐の松山の津へ着船された当時の仮の御所。
上皇の御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった
綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられています。
この最初の御所について、『保元物語』は、松山の御堂に入られたと伝え
『白峯寺縁起』には、上皇は高遠の御堂にて三年を過ごされたと記されています。
この仮の御所で毎日を過ごされた上皇が詠まれた歌に
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」というものがあります。
この歌にちなんで雲井御所と呼ばれるようになったといわれています。
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野澤井
1164年(長寛2年)8月26日、讃岐に流されて8年、崇徳上皇は鼓岡で崩御されます。
このことは直ちに都に伝えられ、上皇の遺体の処置について朝廷の指示を仰ぐこととなりました。
夏の暑い時期で、都からの指示を待つ間、古来から霊水と伝えられる野澤井の清水に浸して
遺体が腐敗することを避けたと伝えられています。
この野澤井とは、今の西庄町八十場の清水付近の古い呼び名です。
この清水は、坂出に伝わる悪魚退治の伝説に登場する霊水でもあり
悪魚の毒気に倒れた八十八人の兵士がこの水を飲んだことで蘇生したため
弥蘇場(やそば)の水とも呼ばれます。(現在は八十場)
今も昔と同様、夏に涼しい場所であり、多くの人が涼を求めて賑わっています。
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ということで、我々も、涼を求め八十場に来ました。
八十八ところてん清水屋(きよみずや)
創業200年の老舗でところてん購入。
時間が遅かったため、テイクアウトのみでした。
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<参考:崇徳上皇代表作(百人一首)>
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」
意:滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、
現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。

ワカシャチ漫遊記第3章「香川県島めぐり 豊島散策」2020年8月 VOL.2

2020年8月8日豊島午後の部
島キッチンで食事後、14時予約の豊島美術館へ向かいました。
島キッチン方は、下り坂を約20分歩きました。
このあたりの民家の石垣は、特徴があります。
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この道の先に、紺碧の海と空が広がる景色が・・・
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今日は残念ながら、碧い海と青い空は見ることができなかった。
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豊島の棚田
2010年、豊島美術館の開館と瀬戸内国際芸術祭の開催に合わせ、
豊島の住民の方や行政、そして美術館を運営する
公益財団法人福武財団による棚田の復元が行われました。
水路が壊れていたり草木の根がはびこっていたりと、
原形が崩れた場所が多くあり、完全なもとの姿には戻りませんでしたが、
復元された棚田は、その土の状態に合わせて管理されています。
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13:50 豊島美術館到着
豊島美術館
瀬戸内海を望む豊島唐櫃(からと)の小高い丘に建設された
アーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛による「豊島美術館」。
休耕田となっていた棚田を地元住民とともに再生させ、その広大な敷地の一角に、
水滴のような形をした建物が据えられました。
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広さ40×60m、最高高さ4.5mの空間に柱が1本もないコンクリート・シェル構造で、
天井にある2箇所の開口部から、周囲の風、音、光を内部に直接取り込み、
自然と建物が呼応する有機的な空間です。
内部空間では、一日を通して「泉」が誕生します。
その風景は、季節の移り変わりや時間の流れとともに、無限の表情を伝えます。
水玉が生まれ、アメーバのように動き、結合し大きな泉になります。
今までの美術館とは、全く別物でした。
14:40 バスで唐櫃港へ
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心臓音のアーカイブ
クリスチャン・ボルタンスキーは人々が生きた証として、
心臓音を収集するプロジェクトを2008年から展開しています。
「心臓音のアーカイブ」は、これまで氏が集めた世界中の
人々の心臓音を恒久的に保存し、それらの心臓音を
聴くことができる小さな美術館です。
自分の心臓音をここで採録することもできます。
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勝者はいない マルチ・バスケットボール
思い思いのルールで楽しむバスケットボール。
島の人や来場者たちがバスケットボールを楽しめる場を創出。
リングがたくさんあるボードで、思い思いのルールで楽しめる。
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全行程終了し、唐櫃港へ戻ってきました。
ここから、16:50のバスで家浦港へ戻り船で高松へ行く予定でしたが、
16:20小豆島行きのフェリーが到着するので、急遽ルートを変更し、
小豆島土庄港へ行きました。
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このフェリーは、岡山の宇野港より豊島を経由し小豆島に向かう船です。
小豆島までは30分で到着。
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土庄港でフェリーを乗り換え、高松へ戻りました。
実は、少し時間はかかりましたが、のんびり大きな船で帰れ大満足。
料金も、大人1,190円/人と安かった。
唐櫃港-土庄港 大人490円/人
土庄港-高松港 大人700円/人
17:30 土庄港発
18:35 高松港着
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ワカシャチ漫遊記第3章「香川県島めぐり 豊島散策」2020年8月 VOL.1

2020年8月8日(土)
コロナ禍、第2波到来中、県外移動は自粛し
豊島(てしま)へ行ってきました。
豊島(てしま)
豊島(てしま)は 瀬戸内海の東部、小豆島の西方3.7kmに位置する島です。
直島諸島に属し、香川県小豆郡土庄町に属します。
豊島は、面積14.5km²、人口約800人の島で、豊島家浦(てしまいえうら)
豊島唐櫃(てしまからと)、豊島甲生(てしまこう)の3つがある。
今回、島内は徒歩とバスで、家浦・唐櫃を散策しました。
9:30: 高松港より家浦港へ高速船で向かいます。(コロナ禍臨時ダイヤ)
片道1,350円 大人
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予想していた船より、かなり小さな船でした。
10:20: 豊島家浦港へ到着
島内の移動は、ほとんどの人がレンタサイクルを利用されていた。
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豊島横尾館
家浦港より徒歩10分 大人520円/人
アーティスト・横尾忠則と、建築家・永山祐子による「豊島横尾館」は、
豊島の玄関口となる港に面した家浦地区の、集落にある古い民家を
改修してつくられました。(2013年7月20日開館)
展示空間は、既存の建物の配置を生かして「母屋」「倉」「納屋」で構成され、
平面作品11点を展示しています。
また、石庭と池、円筒状の塔にはインスタレーションが展開され、
作品空間は敷地全域にシンボリックな拡がりをみせます。
その空間は、生と死を同時に想起させる哲学的な場となり、
さらに、建物には光や色をコントロールする色ガラスを用いて、
豊島の光や風や色、作品の見え方をさまざまに変容させて、
空間体験をコラージュのようにつなげます。
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針工場
豊島横尾館より徒歩10分 大人520円/人
豊島の家浦岡集落にて、平成を迎える手前で閉じられたメリヤス針の製造工場跡。
そこに設置されたのは、宇和島の造船所にて一度も本来の役目を果たすことなく
約30年間放置されていた、鯛網漁船の船体用の木型です。
別々の記憶を背負った2つの存在が、アーティスト大竹伸朗を通して重ね合わせられ、
新たな磁場となって作品空間を形成しています。
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一旦、家浦港へ戻りバスで豊島唐櫃へ向かいます。
途中の道には、オリーブや栗が身を着けていました。
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11:50 家浦港をバスで出発。12:01 清水前下車。
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唐櫃の清水
小豆島西方の豊島にある生活用の水場。
台形平面を有し、雛壇状の花崗岩布積で壁面をつくる。
湧水を上部の貯水槽から3連小水槽、大水槽に流し、各水槽に異なる用途を充てる。
余水は脇の水路から町の下水路に通ずる。
往時からの生活環境を物語る貴重な建造物。
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ピピロッティ・リスト
蔵にチューリップや風景などカラフルな映像を投影する空間展示。
作品名:あなたの最初の色(私の頭の中の解-私の胃の中の溶液)
アーティスト:ピピロッティ・リスト
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ストームハウス
大人300円/人
唐櫃岡の実際に使われていた民家にて、嵐がやってきてから
過ぎ去るまでの約10分間を体感できる作品です。
激しさ増す雨と、鳴り響く稲妻、木の影のざわめき、
吹き荒れる突風と室内に訪れる変化によって鑑賞者を
非日常世界に連れ込んでくれます。
アーティスト:ジャネット・カーディフ& ジョージ・ビュレス・ミラー
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遠い昔に、田舎の実家で、こんなことあったな・・・
という記憶を蘇らせてくれる場所でした。
島キッチン
瀬戸内国際芸術祭2010に、集落の空家を建築家の安部良さんが設計・再生した、
「食とアート」で人々をつなぐ出会いの場です。
島キッチンセット 1,620円 キーマカレーセット 1,296円、季節限定ドリンク 540円を
注文し、縁側でいただきました。
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8月8日Vol.2 午後へ続く

ワカシャチ漫遊記第3章「天空の鳥居」2020年5月

2020年5月28日(木)
世の中はコロナ自粛ムードの中、最近「天空の鳥居」で有名になっている
香川県善通寺市の高見神社へ行ってきました。
平日ですが、会社がシフト勤務となり休みでした。
平日と、自粛期間で観光客はまばら。
前回、断念した時は、車が渋滞し、山に上がれない状態でしたから、
比較にならないほど、余裕の観光でした。
多いときはシャトルバスも運行される人気の場所です。
現在、土日やGW・お盆期間など運行されています。
高見神社
讃岐に二十四ある延喜式内社の一つで、古くから格式ある神社です。
標高404メートルの稲積山の頂上に本宮があるため、
「稲積神社(いなづみじんじゃ)」「稲積さん」ともよばれており、
本宮からは観音寺市内と美しい瀬戸内海が一望できます。
本宮の鳥居は「天空の鳥居」として知られ、2018年には四国八十八景にも選出されました。
まずは、頂上の本宮へいきました。
車は離合できない場所もあり、注意しながら1本道を登ります。
最後の分かれ道(標識は要所にあり迷うことはありません)
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駐車場は、15台から20台くらいしかスペースがないため、土日は混雑必死です。
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ルートを看板で確認し登っていきます。
途中にある、仁尾方面の展望台からの景色もきれいです。
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駐車場から約150m、10分で高見神社本宮に到着、まずはお参りしました。
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そいて、天空の鳥居からの絶景です。
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動画はユーチューブにもアップしています。
https://www.youtube.com/watch?v=PJzIaFC9SaI
外宮にお参り
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外宮から本宮の鳥居が見えます。
歩くと約1時間かかるようです。
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観音寺に来たので、銭形砂絵を見て帰りました。
観音寺市といえば「寛永通宝」と言われるほど、
市内で一番人気がある観光スポットです。
銭形砂絵
有明浜の白砂に描かれたこの砂絵。
大きさは東西122m、南北90m、周囲345m。
一般には、寛永10年(1633年)に藩主、生駒高俊公を歓迎するために
一夜にして作られたと言われており、
この砂絵を見れば健康で長生きし、
お金に不自由しないと伝えられています。
グリーンやゴールドにライトアップされ、夜もきれい。
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ワカシャチ漫遊記第3章「淡路島 桜と菜の花 花見」2020年4月

2020年4月4日(土)
コロナウイルスで日本全体が外出自粛ムードの中、
三密:3つの密(密閉空間、密集場所、密接場面)を避けるように
不要不急ではあったが、淡路島へ行ってきました。
兵庫県立淡路島公園
兵庫県立淡路島公園では、淡路島で最大級となる約900本の
ソメイヨシノとサトザクラが植えられています。
満開の桜を、満喫できました。
公園内ではコロナウイルスの関係で、2m感覚で、隣の人と近づかないような配慮もありました。
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ニジゲンノモリ
淡路島公園内にある施設。
画面や紙面を前に、一人屋内で楽しむことが多いアニメや漫画にゲーム。
これら”二次元コンテンツ”の世界観を、五感を使い、
体を動かしながら体験できる、純日本産のアニメパークです。
”画面や紙面が森全体に広がる場所”だと思ってください。
最新テクノロジーを使用し、まるで作品の中へと迷い込んだ
錯覚を起こす幻想的なアトラクションや、二次元コンテンツの世界観を
踏襲したアクティビティなど、アニメをはじめとしたクールジャパンコンテンツへ
”新しい価値”を付加した、ここにしかない”二次元体験”をお届けします。
クレヨンしんちゃんアドベンチャーパークには沢山のしんちゃんがいました。
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本日のランチ:淡路バーベキューガーデンsafsaf
食材を厳選して作られた「あわじ大地のバーガー」と今が旬のイチゴを食べる。
イチゴはヘタのところまで赤く、甘かった。
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あわじ花さじき
「あわじ花さじき」は花の島にふさわしい花の名所として、
兵庫県が平成10年4月から設置しています。
淡路島北部丘陵地域の頂上部、標高298~235mの海に向かって
なだらかに広がる高原に一面の花畑が広がります。(面積約15ha)
明石海峡・大阪湾を背景に花の大パノラマが展開し、
季節により変わる愛らしい花々が夢の世界に誘います。
眼下に広がる花のジュウタンを楽しめる、極上の見物席として、
『あわじ花さじき』と命名されました。
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千年一酒造
山海の恵み豊かな淡路の東浦で酒造りを続けて140年、
千年一酒造は、造り酒屋と呼ぶにふさわしい小さな酒蔵で
昔ながらの手造りにこだわり、誠実な酒造りを続けている。
酒蔵見学は、コロナウイルスの関係でやっていなかった。
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世界平和大観音像
平和観音寺(へいわかんのんじ)は、兵庫県淡路市釜口にあった寺院・博物館。
正式名称は「豊清山平和観音寺」。
高さ100メートルの「世界平和大観音像」は、建造当時は世界最大の像として話題となるも、
2006年2月26日に閉館し廃墟となっている。
兵庫県淡路市の巨大観音像(高さ約100メートル)について、
財務省近畿財務局は4月1日、周辺施設と共に解体撤去すると発表した。
像は所有者が死亡した2006年以降は閉鎖・放置され、
一部がはがれるなど劣化が著しく、地域住民から不安視されていた。
22年度中に解体撤去する計画で、費用などは未定。 見納めとなった。
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たこせんべいの里
名古屋でよく行っていたえびせんべいの里によく似たたこせんべいの里に行きました。
試食と無料コーヒーが売りの店で、試食中止のお知らせが出ていました。
「新型ウイルス感染予防の為、しばらくの間試食提供を休止させていただくことになりました。」
残念でしたがしっかりお買い物しました。
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洲本城跡
洲本城は三好氏の重臣・安宅治興によって築かれた城で、
羽柴秀吉による淡路討伐の後、仙石秀久に与えられました。
その後、脇坂安治が城主のときに天守が築かれましたが、
移封先の大洲城へ移築したという説があります。
また安治は石垣を改修して「登り石垣」を築きましたが、
これは日本全国でも三箇所にしか残っていない珍しいものです
(ほかのふたつは松山城と彦根城)。
遺構としてはとりわけ石垣の保存状態がよく、
城址のあちこちで見ることができます。
現在は本丸跡に模擬天守が建てられており、
これは江戸時代の天守を復元したものではありませんが、
日本最古の鉄筋コンクリート製模擬天守として知られています。
予想通り、桜が満開でした。
お城と桜はよく似合います。
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本日の夕食:淡路ごちそう館御食国
淡路牛極上バラと淡路玉ねぎを煮込んだ絶品牛丼、
淡路島牛丼をいただきました。
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最近月一で淡路島に来ています。
マイブームで、淡路島が大好きです。
まだまだ行きたい所が沢山ある、魅力的な、大きな島です。