ワカシャチ漫遊記「シリーズ市(SI) 第十三話 垂井町」2015年9月

2015年9月21日(月)
今年のシルバーウィークは晴天に恵まれた。
本日も天気が良かったので、歴史の町垂井町へ出かけました。
タイトルは“市”でしたが、今回は“町”とさせていただきました。
垂井町
垂井町(たるいちょう)は、岐阜県西部の不破郡に属する町です。
濃尾平野の西端に位置し、大垣市や岐阜市のベッドタウン。
東海道新幹線、東海道本線、中山道、美濃路が通っている。
関ヶ原の戦いで毛利秀元などの武将の陣地となった
南宮山は町の西南側に立つ。
人口は9月1日現在 28,128人
南宮大社
金山彦命を主祭神に、旧国幣大社で美濃国一の宮として、
また全国の鉱山、金属業の総本宮として、
今も深い崇敬を集めています。
現在の建物は、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の
兵火によって焼失したものを、寛永19年(1642年)、
春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したものです。
広い境内には本殿・拝殿・楼門など、朱塗りの華麗な姿を並べ、
江戸時代の神社建築の代表的な遺構18棟が、
国の重要文化財に指定されています。
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朝倉山真禅院
真禅院(しんぜんいん)は、岐阜県不破郡垂井町にある天台宗の寺院である。
山号は朝倉山(あさくらさん)。かつての南宮大社の僧坊であった。
真禅院は、近隣にある南宮大社(旧称南宮神社)と関係の深い寺院である。
南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、
神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていた。
明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の
現在地に移され、朝倉山真禅院と称するようになったものである。
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春王・安王の墓
父の持氏が室町幕府将軍足利義教に反抗した末に、
永享11年(1439年)に自害に追い込まれる(永享の乱)と、
弟の安王丸とともに下野国日光山に潜伏する。
後に密かに結城氏朝に居城結城城に匿われ、
義教が自身の子を関東公方に就けようとしたことに反対する
氏朝に擁立され籠城するが(結城合戦)、
上杉持房を総大将とする幕府軍により落城。
安王丸とともに長尾因幡守に捕らえられ、京都護送中に
義教の命令により弟とともに美濃国垂井宿の金蓮寺にて殺害され、ここに葬られた。
この地は、関ヶ原合戦時、池田光政の陣跡でもある。
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垂井の泉
この泉は、県指定の天然記念物である大ケヤキの根本から湧出し、
「垂井」の地名の起こりとされています。
「続日本記」天平12年(740)12月条に見える、美濃行幸中の
聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えており
古くからの由緒があります。
残念ながら1週間前くらいに、大ケヤキは倒れ、そのまま横になっていた。
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垂井城跡
垂井城跡は、関ケ原合戦に活躍した西軍の武将
平塚為広の居城跡といわれています。
平塚為広は、豊臣秀吉に仕え、一万二千石の垂井城主となりました。
大谷吉継とともに西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、
決戦当日には病気の吉継にかわり大谷隊を指揮しました。
小早川秀秋隊が西軍を裏切り大谷隊へ攻めかけると、
為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、
山内の家臣 樫井太兵衛に討たれました。
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垂井宿
垂井宿(たるいじゅく)は中山道57番目の宿場です。
西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。
問屋場は3か所あった。
大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、
西美濃の交通の要衝であった。
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大龍寺・時雨庵
本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれています。
松尾芭蕉は元禄4年(1691)この寺の住職規外を訪ね、
冬篭もりして「作り木の庭をいさめる時雨かな」などを読みました。
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一里塚
一里塚は旅人の休憩所として、また人馬を借りる駄賃定めのため、
徳川家康が慶長9年(1604)から8年の歳月をかけて
江戸日本橋から一里(約4km)ごとに主要海道に築かせたものです。
垂井一里塚は112番目で南側1基だけが残り、国の史跡に指定されています。
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竹中半兵衛
竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。
戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田氏の家臣である
豊臣秀吉の参謀として活躍し、黒田官兵衛とともに「両兵衛」と称された。
しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、
史実上の実像が不明瞭な人物である。
永禄元年(1558年)、竹中半兵衛の父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略した。
永禄2年(1559年)、菩提山城を築いて居城を移し、重治もこれに従う。
菩提山城のふもとが垂井町の岩手で、陣屋跡などが残されている。
竹中氏陣屋跡
竹中家一族が領地を治めるために住んでいた屋敷跡。
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菁莪(せいが)記念館
竹中家が一族に学問や武術を教えるために創設した菁莪堂をもとに
人材育成を大切にしてきた竹中家の精神を今に伝えるために、
1979年に設置された。
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五明稲荷神社
三木城攻めの最中に突然信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、
黒田官兵衛は単身で有岡城に乗り込みましたが、逆に幽閉されます。
戻ってこない官兵衛に謀反の嫌疑をかけた信長は、
長浜城の秀吉の元に人質として預かっている
官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すように命じました。
しかし竹中半兵衛は「官兵衛二心無い」と信じ、
密かに自分の居城・菩提山城から近いこの場所に松寿丸を匿いました。
その後、有岡城から官兵衛が救出されると、松寿丸も開放されました。
このイチョウの樹は、天正8年(1580)閏3月、
松寿丸がここを去る時に植えたと伝わります。
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西隣はすぐ関ヶ原ということもあり、東西の武将の陣跡も点在する。
また、昔から交通の要所でもあり、様々な人が行き来した様子もわかる。
小さい町に沢山の歴史が詰まっていた。

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