ワカシャチ漫遊記第2章「松山散策」2017年9月VOL.2

2017年9月3日(日)
正岡子規と夏目漱石の足跡を訪ね松山市内を散策しました。
午前中は坊ちゃん列車乗車と道後エリアを散策しました。
子規誕生地跡
正岡子規は、慶応3(1867)年9月17日正岡常尚の次男として
現在の松山市花園町3-5で生まれました。
子規の本名は常規ですが、近親者からは幼名の
升から「のぼさん」と呼ばれていました。
花園通り沿いに石碑と説明看板が建っているはずですが
工事中で見つけることができなかった。
松山市駅前の通りの並木2本目あたりだそうです。
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子規堂
子規が17歳まで過ごした住居を復元した文学資料館で、
内部には子規や親交の深かった夏目漱石らに関係する
原稿などの文学資料や写真、各種文献など貴重な資料が展示されている。
子規が庭園を眺めつつ、勉学に打ち込んだとされる当時の机もある。
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法龍寺
愛媛県松山市にある久松家四ケ寺のひとつです。
初代定行公夫人の墓所、また正岡子規が学んだ寺として
地域の皆様に愛されているお寺です。
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子規母堂令妹住居跡
明治21(1888)年に正岡子規の母八重と妹律は
実家の大原家敷地内に移りました。
明治25(1892)年の夏、当時帝国大学生であった
夏目漱石が訪問し、松山鮨を食べたのもこの家です。
現在は、中の川通りの中央分離帯になっている緑地に石碑が、
北側歩道には、説明看板が建っています。
写真を撮るのは大変です。
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子規旧邸跡
子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。
現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで
過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立っています。
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「ほとゝぎす」創刊の地
「子規」に因んで名付けられた俳誌「ほとゝぎす」は、柳原極堂によって、
明治30年(一八九七)1月15日、立花町50番戸で創刊されました。
極堂は、発行に先立ち、明治29年の冬、子規に許しを得るため
上京しています。
創刊号は、海南新聞(現愛媛新聞)の印刷部で印刷され、
用紙は新聞社のザラ紙を分けてもらったという。
発行部数は300部、1冊6銭だった。
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河東静渓住居跡
河東静渓は、俳人河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の父です。
静渓は江戸時代に儒学者として昌平黌で学び、
帰省後は藩校明教館の教授となりました。
また、明治13(1880)年、この地に私塾千舟学舎を開き、
正岡子規ら明治の若者たちを教育しました。
碧梧桐は明治6(1873)年2月26日にこの地で生まれました。
高浜虚子と並び、子規門の双璧といわれる
碧梧桐が俳句を始めたのは中学校の頃です。
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大原観山旧居跡
観山は、正岡子規の外祖父にあたる。
伊予松山藩士加藤重孝の次男として生まれ、大原家の養子となる。
歌原家の長女と結婚し、松山藩藩校明教館教授となる。
明治維新後は、私塾で孫の正岡常規(後の子規)を教えていた。
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第五十二国立銀行跡
第五十二国立銀行は、伊予銀行の前身で
明治11(1878)年に誕生した銀行です。
設立にあたっては旧松山藩士の小林信近が初代頭取となり、
正岡子規の叔父大原恒徳も大きく関与し、支配人も務めています。
恒徳は幼くして正岡家を継いだ子規の後見人として、
常に子規が頼りにした相談相手です。
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きどや旅館跡
漱石の「坊っちやん」で主人公が最初に泊った「山城屋」の
モデルになったのが、当時松山第一流の旅館であった「きどや旅館」です。
漱石は、この「きどや」から城山の山裾の「愛松亭」へ移り、
のち、「愚陀佛庵」に移る。
なお、明治のときの「きどや」は戦災により焼失してしまった。
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本日の昼食
松山市のソウルフード「鍋焼きうどん」を食べました。
お店はアサヒという老舗のお店です。
メニューは鍋焼きうどん、玉子入りか無しかです。
甘い肉うどん!という感じで、大変美味しいです。
いなり寿司はありますが、すでに完売でした。
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VOL.3へ続く

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