ワカシャチ漫遊記第2章「松山散策」2017年9月VOL.4

2017年9月9日(土)
松山市内散策。
大林寺
松山藩初代藩主松平隠岐守定行公は、
父定勝の卒去により、遺領桑名藩11万石を継承します。
その後、隠岐守に転任し従四位下に昇進。
1635年家光の命により4万石の加増をもって伊予松山藩に移る。
松山城の天守を5重から3重に改築した。
定行公が、松山城主となると、松山城下の味酒町にあった
禅宗見樹院へ父定勝公を祀り、寺号を崇源院と改めました。
崇源院は、2代将軍秀忠公の御台所浅井氏の院号と同じであったので、
それに遠慮して、寺号を大林寺と改めました。
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定行公は蒲生家の御霊を末広町の興聖寺へ移し、蒲生家墓地跡に供養塔を築きました。
旧伊予松山藩主松平隠岐守家の御霊廟
戦前までは、歴代藩主の霊廟がありました。
しかし、戦災で御霊屋が焼失し、戦後、墓地が整理され、
現在の霊廟が造られました。
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ロシア兵捕虜収容所(大林寺)
松山には日露戦争が始まった1904年(明治37年)に
全国初の捕虜収容所が設けられ、捕虜が収容されました。
松山が捕虜収容所となった理由としては諸説ありますが、
高浜が瀬戸内海のおだやかな港であり、輸送に便利なこと、
気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが挙げられます。
当時の大林寺は今よりも広々とした敷地に大きな本堂を携えており、
捕虜収容所としては最適で、病院代わりに用いられていました。
ロシア人墓地
松山城を南に望む御幸山(みさじやま)の西麓に
ロシア人墓地があります。
ロシア人墓地には、日露戦争で捕虜となり、負傷し懸命の看護の甲斐なく異国の地で
生涯を終えたワシリー・ボイスマン大佐、以下捕虜97名が埋葬されています。
墓碑は祖国を望むように北向きに建てられています。
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寶塔寺
昭和12年東京で永眠した碧梧桐は、父母の眠る宝塔寺墓地に埋葬された。
「碧梧桐墓」の力強い筆跡は晩年の自筆。
寶塔寺は松山市朝日ヶ丘にあります。
私の現在の住まいからも徒歩圏内です。
「碧梧桐墓」は思ったより小さく、探すのに苦労しました。
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梅津寺公園
松山の海の玄関、三津浜と高浜の中間点に梅津寺はあります。
美しい景観に目を付けた伊予鉄道が、昭和10年遊園地を開園。
愛媛県を代表する遊園地となったが、平成21年に閉園となり、
現在は梅津寺公園となり、イベントやスポーツなどに利用されている。
この公園には秋山兄弟の銅像がある。
陸軍の主戦場だった満州の方向を向いている秋山好古の銅像。
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日本海海戦の舞台、対馬海峡の方向を向いている秋山真之の銅像。
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坂の上の雲が放映されたころは綺麗に整備さえていたかもしれないが、
現在は、雑草が伸び、銅像へ行くまでの道も荒れており、
とても寂しいく、残念な思いをしました。
ターナー島(四十島)
ターナー島は、高浜港の沖合約150mに浮かぶ、
周囲約140mの小島「四十島」の別名です。
ターナー島名は、夏目漱石の小説「坊ちゃん」で四十島の松を目にした
赤シャツが、「ターナー(イギリスの画家)の絵にありそうだね」と言うと、
野だが、「どうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ様ぢゃありませんか」
と応じたことにちなみ、この島はターナー島と呼ばれるようになった。
夏目漱石が見た島の松は今はなく、2代目のクロマツが
地元の有志らが甦らせた。
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道後温泉などでは有名だった松山ですが、
歴史的には、登場することが少なかったように思います。
明治以降、秋山兄弟・正岡子規の活躍で一気に注目を浴び、
坂の上の雲ミュージアムや子規記念館などでその歴史を見ることができます。

本日の歩数:12,000歩




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