ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.2

2020年9月21日(月)敬老の日
3日目:徳島県
今日は徳島の歴史を体感するために1日散策しました。
<訪れた徳島県のお城>
撫養城(むやじょう)
築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。
その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、天正10年(1582年)、
長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を長宗我部元親の配下である
真下飛騨守が守備する。
天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、
徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた。
一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。
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撫養橋方面
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徳島市内方面
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勝瑞城跡(しょうずいじょう)
勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、
経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、
日本の中世史上重要な城跡である。
旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。
現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、
当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。
海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、
紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。
当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、
守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。
室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。
中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、
三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、
城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、
一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。
しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、
最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。
「司馬遼太郎と城を歩く」にも勝瑞城が出てくる。
「室町時代から戦国時代にかけて、阿波国を支配していた三好氏は、
この地を拠点に、畿内に進出。
一時は都を支配して天下を取る勢いも見せた。
その背景には、この豊かな穀倉地帯を領有する経済力と、
水軍を使って、兵力を迅速に動員できる抜群の機動力があった」
と記載されている。
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勝瑞城跡
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土塁
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<訪れた徳島のお寺>
見性寺(けんしょうじ)
徳島県板野郡藍住町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は竜音山。本尊は釈迦牟尼。
三好氏の菩提寺で敷地内には勝瑞城址が残っています。
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三好家墓所(三好之長・三好元長・三好実休・三好長治)
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観音寺(天塚)
鳴門市里浦町にある観音寺はご本尊を聖観世音菩薩として永禄元年(1558年)開山。
境内には約150種・450株の牡丹が植えられており、牡丹寺として皆様に親しまれています。
大塚製薬の大塚家菩提寺でもあります。
また、清少納言の祈願寺としても有名。
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天塚
清少納言の父 清原元輔が里浦の領主をしていた時代があります。
清少納言は正暦4年(993)28歳のとき、一条天皇の中宮定子(当時17歳)に仕えました。
長保2年(1,000)、清少納言35歳の時に皇后定子(当時24歳)が死亡。
定子の死後、流浪の旅に出た清少納言が里浦に流れ着いたという伝承があります。
観音寺より北へ約750m、鳴門の海岸近くの路地裏にひっそりとありました。
案内板によると、このあま塚と呼ばれるお堂には、清少納言の墓が安置されている。
地元の言い伝えでは、清少納言はこの地で亡くなったという。
しかもその最期は非常に悲惨なものであり、地元の漁師に辱めを受けた末に、
海に身を投げて死んだとされている。
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阿波国分寺
徳島県徳島市国府町矢野に位置する寺院。
四国八十八箇所霊場の第十五番札所。
札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例である。
国分寺はこのお寺の周囲218m四方に及ぶ範囲に存在していたと考えられている。
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阿波国分尼寺跡
741年(天平13年)、聖武天皇の発願によって、全国に国分寺と国分尼寺が造られ、
奈良の東大寺を総国分寺に、法華寺を総国分尼寺とした。
阿波国分尼寺跡は、鮎喰川によって形成された沖積平野に突き出した気延山南麓に位置する。
金堂・北門・北東西の外濠、雨落ち溝などの遺構が確認された。
出土遺物のうち、軒丸瓦・軒平瓦からみると創建の時期(奈良時代)を示すが、
土器は平安時代のものが多く、創建当初の施設が長くは続かなかったことを示している。
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興源寺
興源寺(こうげんじ)は、徳島県徳島市下助任町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
徳島藩主蜂須賀家の墓所があることで知られ、墓所は国の史跡に指定されている。
興源寺一帯は助任緑地として整備されている。
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家祖蜂須賀正勝(通称小六)の墓所
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霊山寺
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。
この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、
「同行二人」の長い旅となる。
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。
弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、
この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、
心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。
その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。
大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、
インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。
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VOL.3へ続く

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