ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.3

2020年9月21日(月)敬老の日。
シルバーウイーク3日目:徳島散策
<訪れた徳島の神社>
阿波神社
徳島県鳴門市大麻町にある阿波神社は、1221年(承久3年)に
勃発した承久の乱の後、同年に土佐へ、さらに1223年(貞応2年)に
阿波に移り約9年滞在の後、1231年(寛喜3年)にこの地で崩御した
土御門天皇を御祭神として祀っている神社。
撫養街道に面した一画に土御門天皇火葬塚があり、そのすぐそばに参道がある。
1940年(昭和15年)に紀元二千六百年記念行事として、
それまでの丸山神社から社名を阿波神社に改め、造営を開始、
延べ7万人の勤労奉仕によって1943年(昭和18年)に
竣工したという立派な本殿が、よく整備された境内に建つ。
温情深く、争い事を好まず、人の喜び悲しみを理解し、歌を愛したという
土御門天皇の面影が残るかのように、実に穏やかで落ち着いた佇まいの神社だ。
DSC_0223.JPG
DSC_0221.JPG
DSC_0222.JPG
土御門天皇
建久9年、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。
立太子はしていなかった。同年3月3日即位。
事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。
しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、
退位を迫り、承元4年、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年上皇となる。
京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では
正治元年に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。
承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので
処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに
自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。
後に、より都に近い阿波国に移された。
鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、
守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。
その地は、現在の阿波市御所など諸説あり、特定されていない。
寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。享年37。
土御門天皇火葬塚
徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇を御祭神とする
阿波神社があり、境内に火葬塚がある。
DSC_0225.JPG
DSC_0227.JPG
松木殿
松木神社:徳島県板野郡板野町下庄栖養。栖養行在所(松木殿)跡にある。
土御門上皇が住んでいたとされる場所です。
IMG_6694.JPG
DSC_0265.JPG
IMG_6695.JPG
<訪れた資料館他>
徳島私立考古資料館
徳島市立考古資料館は「みて、ふれて、つくって、古代ロマンあふれる館」という
キャッチコピーをかかげ、1998(平成10)年に開館した。
徳島市内で発掘された、縄文時代から平安時代にかけての考古資料を収蔵・保管し、
広く展示公開してある。
IMG_6669.JPG
IMG_6670.JPG
IMG_6672.JPG
IMG_6677.JPG
鳴門市ドイツ館
鳴門市ドイツ館は、板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動の様子や、
地域の人々との交流の様子を展示した史料館です。
ドイツ兵たちが板東でどのような生活を送っていたのか、
地域の住民とどのように関わり合ったのか、
なぜドイツ館が創設されたのかなどを、具体的に知ることができます。
第九初演のエピソードが映像とロボットで語られる「第九シアター」は見所です。
IMG_6700.JPG
IMG_6708.JPG
DSC_0273.JPG
IMG_6716.JPG
<徳島での食事・旬なもの>
焼きそば専門店突貫亭
焼きそば20200921突貫亭 (12).JPG
焼きそば20200921突貫亭 (7).JPG
旬な鳴門金時と新高なし
DSC_0293.JPG
DSC_0295.JPG
見どころ満載、食べ物もおいしい徳島の旅でした。
9月23日(火)秋分の日
完全休養日で、高松市内。
GO TO TRAVEL四国 4日間の走行距離
初日:高知 322km
2日目:愛媛 342km
3日目:徳島 230km
4日目:香川  16km
4日間合計: 910km

ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.2

2020年9月21日(月)敬老の日
3日目:徳島県
今日は徳島の歴史を体感するために1日散策しました。
<訪れた徳島県のお城>
撫養城(むやじょう)
築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。
その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、天正10年(1582年)、
長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を長宗我部元親の配下である
真下飛騨守が守備する。
天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、
徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた。
一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。
IMG_6569.JPG
撫養橋方面
IMG_6574.JPG
徳島市内方面
IMG_6579.JPG
IMG_6567.JPG
勝瑞城跡(しょうずいじょう)
勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、
経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、
日本の中世史上重要な城跡である。
旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。
現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、
当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。
海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、
紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。
当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、
守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。
室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。
中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、
三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、
城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、
一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。
しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、
最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。
「司馬遼太郎と城を歩く」にも勝瑞城が出てくる。
「室町時代から戦国時代にかけて、阿波国を支配していた三好氏は、
この地を拠点に、畿内に進出。
一時は都を支配して天下を取る勢いも見せた。
その背景には、この豊かな穀倉地帯を領有する経済力と、
水軍を使って、兵力を迅速に動員できる抜群の機動力があった」
と記載されている。
IMG_6632.JPG
IMG_6627.JPG
勝瑞城跡
IMG_6620.JPG
IMG_6616.JPG
土塁
IMG_6622.JPG
IMG_6621.JPG
<訪れた徳島のお寺>
見性寺(けんしょうじ)
徳島県板野郡藍住町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は竜音山。本尊は釈迦牟尼。
三好氏の菩提寺で敷地内には勝瑞城址が残っています。
IMG_6626.JPG
三好家墓所(三好之長・三好元長・三好実休・三好長治)
IMG_6633.JPG
観音寺(天塚)
鳴門市里浦町にある観音寺はご本尊を聖観世音菩薩として永禄元年(1558年)開山。
境内には約150種・450株の牡丹が植えられており、牡丹寺として皆様に親しまれています。
大塚製薬の大塚家菩提寺でもあります。
また、清少納言の祈願寺としても有名。
IMG_6600.JPG
IMG_6602.JPG
天塚
清少納言の父 清原元輔が里浦の領主をしていた時代があります。
清少納言は正暦4年(993)28歳のとき、一条天皇の中宮定子(当時17歳)に仕えました。
長保2年(1,000)、清少納言35歳の時に皇后定子(当時24歳)が死亡。
定子の死後、流浪の旅に出た清少納言が里浦に流れ着いたという伝承があります。
観音寺より北へ約750m、鳴門の海岸近くの路地裏にひっそりとありました。
案内板によると、このあま塚と呼ばれるお堂には、清少納言の墓が安置されている。
地元の言い伝えでは、清少納言はこの地で亡くなったという。
しかもその最期は非常に悲惨なものであり、地元の漁師に辱めを受けた末に、
海に身を投げて死んだとされている。
IMG_6592.JPG
IMG_6594.JPG
IMG_6585.JPG
阿波国分寺
徳島県徳島市国府町矢野に位置する寺院。
四国八十八箇所霊場の第十五番札所。
札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例である。
国分寺はこのお寺の周囲218m四方に及ぶ範囲に存在していたと考えられている。
IMG_6685.JPG
IMG_6678.JPG
IMG_6684.JPG
阿波国分尼寺跡
741年(天平13年)、聖武天皇の発願によって、全国に国分寺と国分尼寺が造られ、
奈良の東大寺を総国分寺に、法華寺を総国分尼寺とした。
阿波国分尼寺跡は、鮎喰川によって形成された沖積平野に突き出した気延山南麓に位置する。
金堂・北門・北東西の外濠、雨落ち溝などの遺構が確認された。
出土遺物のうち、軒丸瓦・軒平瓦からみると創建の時期(奈良時代)を示すが、
土器は平安時代のものが多く、創建当初の施設が長くは続かなかったことを示している。
IMG_6688.JPG
IMG_6693.JPG
IMG_6689.JPG
興源寺
興源寺(こうげんじ)は、徳島県徳島市下助任町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
徳島藩主蜂須賀家の墓所があることで知られ、墓所は国の史跡に指定されている。
興源寺一帯は助任緑地として整備されている。
IMG_6634.JPG
IMG_6636.JPG
IMG_6666.JPG
IMG_6638.JPG
家祖蜂須賀正勝(通称小六)の墓所
IMG_6664.JPG
霊山寺
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。
この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、
「同行二人」の長い旅となる。
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。
弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、
この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、
心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。
その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。
大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、
インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。
IMG_6735.JPG
IMG_6731.JPG
DSC_0282.JPG
VOL.3へ続く

ワカシャチ漫遊記第3章「GO TO TRAVEL四国」2020年9月 VOL.1

2020年9月19日(土)
4連休(シルバーウィーク)が始まりました。
コロナ禍の中、GOTOTRAVELも始まりました。
私は初日高知、2日目愛媛、3日目徳島と
四国3県へ行く予定を立てました。(宿泊なし)
初日:高知散策
早明浦ダム
早明浦ダム(さめうらダム)は、高知県長岡郡本山町と土佐郡土佐町にまたがる、
一級河川・吉野川本流上流部に建設されたダムです。
型式は重力式コンクリートダム、高さは106.0mで、総貯水容量は3億1600万㎥、
有効貯水容量は2億8,900万㎥、利水容量は1億7300万㎥、
吉野川水系における水資源施設の中核をなす四国地方最大のダムです。
吉野川の治水と四国地方全域の利水を目的に建設され、
このダムの水運用は四国地方の経済・市民生活に極めて多大な影響を及ぼします。
このため「四国のいのち」とも呼ばれ、四国地方の心臓的な役割を果たします。
2005年(平成17年)には本山町・土佐町・大川村の推薦により
財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。
IMG_6459.JPG
IMG_6481.JPG
IMG_6476.JPG
汗見川
汗見川は下流域から立野、坂本、沢ケ内、屋所、瓜生野、七戸の
6集落から成り立っている地域です。
エメラルドグリーンに輝く清流や、流域にみられる学術的に貴重な変成岩類、
白髪山の根下がりヒノキや白骨林など、自然の見どころが満載です。
「あせみがわ」と読まれる方が多いですが、「あせみかわ」が正しい読み方です。
IMG_6490.JPG
枕状溶岩
約1億年前の海底火山で噴出した溶岩が固まった、珍しい藍色の
枕状溶岩と枕状礫岩の露顕が見られ、枕状溶岩は、
高知県の天然記念物に指定されています。
IMG_6485.JPG
IMG_6489.JPG
亀岩
亀の形に似た巨岩のあることから、このあたりは「亀岩の水辺」と呼ばれ、
四国の水辺八十八箇所に選ばれています。
IMG_6509.JPG
IMG_6506.JPG
ゴトゴト石
大きな石なのに押せば簡単にゴトゴトと揺れる。
けれどどんなに押しても決して落ちない不思議な石です。
いつの頃からか「落ちない祈願」をするために、
願掛けに受験生などが訪れるようになりました。
IMG_6513.JPG
IMG_6525.JPG
IMG_6524.JPG
近くには山姥の滝(落差30m)もあります。
IMG_6512.JPG
ゴトゴト石までの道は非常に狭いため要注意です。
先日も某旅番組で取り上げられたので、人が多いかと思いましたが、
今日は、1台のみすれ違っただけでした。
駐車スペースは5台くらいだと思います。
DSC_0115.JPG
DSC_0117.JPG
ひろめ市場
ひろめ市場は、高知市中心部・帯屋町(おびやまち)アーケードの西端にあります。
ここは、昼間から地元客と観光客が入り乱れて酒を酌み交わすという、
いかにも酒好きな県民が多いといわれる高知県らしい名所です。
1998年のオープン以来、いまだ客足が衰えない人気スポットです。
ひろめ市場は、郷土料理をはじめとする和洋中様々な飲食店約40、
お土産屋や洋服店などの物販店約20が軒を連ねる屋台村風商店街です。
3時ごろに行きましたが、コロナ禍とは思えないくらい人が沢山いました。
ひとまず、明神丸のカツオのたたきを塩でいただきました。
DSC_0124.JPG
DSC_0126.JPG
DSC_0130.JPG
DSC_0139.JPG
高知県立高知城歴史博物館
2017年3月、高知城のふもとに開館。
土佐藩主山内家伝来の貴重な資料を中心に、土佐藩・高知県ゆかりの
歴史資料の数々を収蔵・展示する本格的な博物館です。
実物資料の展示を中心に、体験型展示や映像、メディア機器などで、
大人から子どもまで楽しみながら歴史を学ぶことができます。
また、展望ロビーから望む高知城の姿は必見です。
DSC_0144.JPG
IMG_6541.JPG
IMG_6538.JPG
DSC_0146.JPG
IMG_6549.JPG
高知城
高知城は、江戸時代に建造された天守や本丸御殿(天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみ)、
追手門等が現存し(天守と追手門が両方現存している城は全国で弘前城・丸亀城・高知城の3ヶ所)、
城跡は国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている。
今回は入場はしなかった。
IMG_6546.JPG
IMG_6544.JPG
IMG_6553.JPG
IMG_6555.JPG
山内神社
明治4年(1871年)創立。境内には山内容堂の銅像があり、
土佐山内家の歴代藩主と初代一豊夫人を祀る神社です。
東側には山内容堂邸跡が鷹匠公園として整備されている。
IMG_6563.JPG
IMG_6561.JPG
IMG_6559.JPG
土佐山内家宝物資料館は、高知城歴史博物館ができたため、
平成28年3月31日に閉館したそうです。
IMG_6558.JPG
はりまや橋
よさこい節にも歌われ、純信・お馬の恋物語でも知られるはりまや橋は、
江戸時代初期、堀川を隔ててすんでいた播磨屋と櫃屋が互いの往来のために
橋を架けたのが「はりまや橋」の名の由来といわれています。
お土産物を買って食事して帰りました。
DSC_0158.JPG
DSC_0161.JPG
本日の夕食
鳥心本店でチキンナンバン定食。
DSC_0171.JPG
DSC_0173.JPG
DSC_0167.JPG
DSC_0163.JPG
2020年9月20日(日)
2日目:愛媛松山
今日は久々にソフトボールの練習に参加のため松山へ。
ソフトボールの練習の時は必ず、寄り道して帰ります。
今日は、にちょうで豚丼を食べて、石鎚SAの椿温泉に入り、
お土産のスイーツを買って帰るいつものルーティーン。
途中、2015年に車を購入して5年、77,777km走行達成しました。
DSC_0199.JPG
DSC_0198.JPG
DSC_0188.JPG
DSC_0205.JPG
DSC_0202.JPG
DSC_0207.JPG
DSC_0204.JPG
DSC_0209.JPG
DSC_0185.JPG
DSC_0184.JPG
さすがに今日は、筋肉痛で疲れました。
明日の徳島のために早めの就寝。



ワカシャチ漫遊記第3章「源平合戦の郷散策(香川県牟礼町)」2020年9月 VOL.2

2020年9月13日(日)/
源平合戦のゆかりの地・屋島を散策。
後半は、遊鶴亭展望台を下山した後、
牟礼町のゆかりの地を散策しました。
源平合戦屋島の戦い
1185年、平氏軍が本拠地としていた讃岐の国屋島へ
源義経ら源氏軍が攻め入り、屋島の戦いが起こりました。
平家物語』と平家物語の異本として知られる『源平盛衰記』で
伝説として語り継がれているのが「扇の的」と「弓流し」です。
現在、散策した場所は海ではないが、この伝説を体感できます。
義経の弓流し
義経の弓流しは、平安時代末期の源平合戦の中で有名な逸話のひとつです。
平家物語によると、この戦いで、義経は自らの弓を誤って海に流してしまいます。
義経は部下たちが止めるのを聞かず、敵兵の行き交う沖まで行き、
弓を拾ってきました。
戻った義経は「もっと強い弓ならいざ知らず、源氏の大将がこのような
弱い弓を使っていることを平氏に知られては、末代までの恥となる。
そのため命を顧みず拾いに行ったのだ。」と語り、
部下たちは感銘を受けたそうです。
IMG_6382.JPG
IMG_6384.JPG
那須与一扇の的
義経によって追い詰められた平家軍は、源氏軍が意外と少ないことに気付くと
船を岸に寄せて弓矢での攻撃を開始しました。
激しい戦いでしたが、日が暮れるとともに休戦状態になります。
平家軍は小舟に美しい女性を乗せ、「竿の先の扇の的を射よ」と挑発しました。
いくら休戦中とはいえ、これを外せば源氏の名に傷がついてしまいます。
義経は腕の良い武士を探し、畠山重忠に的を射るよう命じました。
しかし重忠はこれを辞退し、代わりに下野国の武士・那須十郎を推薦します。
ところが十郎も傷が癒えないからとやはり辞退し、
弟の那須与一を推薦したのです。
抜擢された那須与一は、仕方なくこれを引き受けることとなります。
与一は馬に乗って海に入ると、弓を構えて「南無八幡大菩薩」と神仏に祈りました。
そして、射損じたら切腹する覚悟で矢を放ったのです。
皆が見守る中で放たれた矢は、見事に扇の柄を射抜きました。
空中を舞い上がった扇は春風に揺られ、その後そっと海に落ちたのです。
このシーンは『平家物語』の名場面「扇の的」として知られています。
この様子を見た平家は、敵ながら天晴れと舟の端を叩いて感嘆しました。
また、陸にいた源氏も弓の容器を叩きながら歓喜したのです。
敵同士とはいえ、その場は大いに盛り上がりました。
祈り岩
与一が弓を射る前に神仏に祈りを捧げた場所であるとされる。
IMG_6441.JPG
IMG_6442.JPG
駒立岩
祈り岩の北西数10歩の川中にある巨石で、潮が引くと頭を出す。
那須与一がこの石上に馬を止めて、扇の的を射たといわれている。
IMG_6445.JPG
IMG_6438.JPG
IMG_6437.JPG
IMG_6440.JPG
IMG_6439.JPG
総門跡
神櫛王墓の北約200メートル、旧庵治街道の傍らにある。
寿永2年(西暦1183年)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、
屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。
この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。
総門は、その遺跡である。
源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、
故に里人はここを源氏の総門という。
高松藩主松平頼重(英公)は衡門(かぶきもん=冠木門)を建ててその古跡を表した。
現在の総門の南東に木戸(城戸)と呼ばれる集落がある。
そこで、ここに総門があったのではないかとする説がある。
英公は世人に広く知らせるため、今の街道筋に建てたのではないかといわれている。
IMG_6450.JPG
DSC_3307.JPG
IMG_6451.JPG
射落畠
総門の南側の細道を東に数10歩行き、
県道八栗・庵治線に突きあたる手前右側にある。
佐藤継信が義経の身代わりとなって射落とされたと伝わる場所である。
DSC_3303.JPG
IMG_6448.JPG
半日の散策ではあったが、盛りだくさんの内容でした。



ワカシャチ漫遊記第3章「源平合戦の郷散策(香川県牟礼町)」2020年9月 VOL.1

2020年9月13日(日)/
今週は、天気が崩れると聞いていたが、なんとか持ち直し、
雨が降らなかったので、高松市の牟礼町を散策しました。
牟礼町
牟礼町は、高松市の東部に隣接し、北は霊峰五剣山を隔てて庵治町と接し、
また、西は屋島檀ノ浦、東は志度湾にも面しています。
屋島と五剣山に囲まれたこの地は、古くから天然の要害として重要視され、
平安末期、源氏に都を追われた平家は、屋島檀ノ浦に皇居を、
牟礼に総門を建て、都奪還のための拠点としました。
源義経の軍勢との武者の誉れを賭けた戦いは、源平合戦屋島の戦いと呼ばれ、
那須与一のエピソードを始め、町内には、数多くの源平史跡が残されています。
また、庵治石の産地として石材業が盛んで、水晶と同じ硬度を持つ庵治石を
加工するために培われてきた職人の技術は、牟礼町にアトリエを構えた
世界的な彫刻家イサム・ノグチなど、内外から高い評価を得てきました。
見どころの多い、牟礼町を半日散策しました。
義経鞍掛松
寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、
源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(現高松町)の里に入り、
屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
其の時の大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
DSC_3251.JPG
IMG_6366.JPG
菜切地蔵
神櫛王墓南方の丘の上にある。
地蔵堂の中央正面に地蔵菩薩の石彫、右側に室町時代以後と考えられる
五輪塔の変形的なもの、左側に十一面観音の石彫を安置している。
土地の人は右側の石塔を地蔵と呼んでおり、弁慶が地蔵の背中を
まな板がわりにして大長刀で菜を切ったと伝えている。
この辺一帯の集落名を今も菜切と称している。
IMG_6369.JPG
IMG_20200915_194508.jpg
IMG_6368.JPG
長刀泉
現状は石組みの井戸跡としてあるもので、立地において「菜切地蔵」、
「瓜生が丘」の周辺に位置することから、源氏軍の陣跡に比定されている。
また、『三代物語』において、「武蔵坊弁慶屓尖刀鐓(なぎなたのいしづき)
を以って、井を穿つ、しばらくして清水湧く。云々」とあり、
弁慶の武勇とともに、海辺の陣にあって炊事用水に苦慮した様子を伝えている。
IMG_6372.JPG
IMG_6375.JPG
神櫛王(かみくしおう)墓
神櫛皇子(生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「神櫛皇子」、『古事記』では「神櫛王」、
他文献では「神櫛別命」「神櫛命」「五十香彦命」とも表記される。
第12代景行天皇の皇子である。
墓は、宮内庁により香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓に治定されている。
宮内庁上の形式は上円下方墳。
IMG_6376.JPG
IMG_6378.JPG
DSC_3266.JPG
菊王丸の墓
源平合戦のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして
能登守教経の強弓に倒れました。
そのとき教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、
そうはさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。
教経は、菊王丸をあわれんでこの地に葬ったと伝えられています。
IMG_6385.JPG
IMG_6386.JPG
安徳天皇社
寿永2(1183)年、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
ここは、檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、
東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、
行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
DSC_3269.JPG
IMG_6388.JPG
佐藤継信の墓
継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、
平家の武将能登の守教経の強弓により、大将義経の命危ういとみて、
義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために
寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、
合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、
屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
また、墓は牟礼町王墓にも残っています。
遍路道の佐藤継信の墓
IMG_6395.JPG
IMG_6394.JPG
神櫛王墓横の佐藤継信の墓・大夫黒の墓
大夫黒(たいふくろ)は、源義経が一ノ谷の戦いの鵯越の逆落しで乗馬した愛馬。
『吾妻鏡』によると、後白河院の厩にいた名馬で、源義経が賜り、
戦場へ出る度に乗馬していたのだという。
屋島の戦いで佐藤継信が討死すると、義経は供養してくれた僧へ礼として贈り、
死後は継信のそばに葬られたのだと伝えられている。
DSC_0027.JPG
DSC_0025.JPG
長崎の鼻・長崎鼻砲台跡
高松市の屋島最北端、瀬戸内海に突き出した岬が長崎の鼻。
テーブル状になった典型的なメサ地形の屋島は、古代に屋嶋城(やしまのき)が築かれ、
源平合戦では平家の水軍の拠点となりました。
嘉永6年(1853年)のペリー以来、外国船の監視と防備の必要性が高まり、
讃岐国でも、幕末の文久3年(1863年)、幕府の命を受けて11代高松藩主(最後の藩主)
松平頼聰(まつだいらよりとし=将軍・徳川慶喜とは従兄弟)が
瀬戸内と高松湊の防備のため、長崎の鼻に砲台を築いています。
現在、砲台の上段部分が駐車場になっており、中段、下段の砲台部分へは下ることに。
長崎鼻台場に備えられた大砲は、二十六斤砲と十二斤砲が合計6門でした。
IMG_6399.JPG
IMG_6407.JPG
IMG_6402.JPG
IMG_6427.JPG
屋島
屋島は、もとは高松平野から隔たれた島でした。
屋島の山頂部は平坦で、その端は讃岐岩質安山岩
(古銅輝石・普通輝石安山岩)の急崖に取り囲まれたメサです。
屋島は山頂部の平坦面が急崖によって囲まれたメサとして、
昭和 9 年に国の天然記念物に指定されました。
今日は、屋島の北嶺登山道から820mの遊鶴亭まで歩いてみました。
DSC_3287.JPG
DSC_3285.JPG
屋島洞窟
屋島の北嶺に分布する層厚約 20mの火山礫凝灰岩および凝
灰質砂岩は、屋島の黒石と呼ばれ、豊島石と同じ材質のため、
江戸時代から石材として採掘されてきました。凝灰岩層の上方
には讃岐岩質安山岩が急崖をつくっているため、横穴を掘って
採掘し、その穴丁場が洞窟となって残っています。
登山開始から440mの地点に屋島洞窟がありました。
まだまだ急登が続きます。
IMG_6416.JPG
IMG_6417.JPG
遊鶴亭
屋島北嶺にある展望台で、獅子の霊巌、談古嶺と並ぶ
屋島三大展望台の一つが屋島北嶺の遊鶴亭展望台です。
大正12年、香淳皇后が命名したもの。
テーブルマウンテン(メサ地形)となった屋島台地の北端に位置するため、
瀬戸内海方面の眺望が広がります。
遊鶴亭展望台からは、ぐるり320度を見渡すことが可能で、
瀬戸内海に浮かぶ島々や、源平合戦で有名な「船隠し」も
俯瞰で見ることができます。
IMG_6436.JPG
高松駅方面
IMG_6422.JPG
男木島・女木島方面
IMG_6426.JPG
小豆島・庵治方面
1600188718993.jpg
猛暑続きで、連日35度を超えていましたが、
今日は30度前後と比較的涼しくなり活動しやすくなってきた。
後半へ続く。