ワカシャチ漫遊記第3章「源平合戦の郷散策(香川県牟礼町)」2020年9月 VOL.1

2020年9月13日(日)/
今週は、天気が崩れると聞いていたが、なんとか持ち直し、
雨が降らなかったので、高松市の牟礼町を散策しました。
牟礼町
牟礼町は、高松市の東部に隣接し、北は霊峰五剣山を隔てて庵治町と接し、
また、西は屋島檀ノ浦、東は志度湾にも面しています。
屋島と五剣山に囲まれたこの地は、古くから天然の要害として重要視され、
平安末期、源氏に都を追われた平家は、屋島檀ノ浦に皇居を、
牟礼に総門を建て、都奪還のための拠点としました。
源義経の軍勢との武者の誉れを賭けた戦いは、源平合戦屋島の戦いと呼ばれ、
那須与一のエピソードを始め、町内には、数多くの源平史跡が残されています。
また、庵治石の産地として石材業が盛んで、水晶と同じ硬度を持つ庵治石を
加工するために培われてきた職人の技術は、牟礼町にアトリエを構えた
世界的な彫刻家イサム・ノグチなど、内外から高い評価を得てきました。
見どころの多い、牟礼町を半日散策しました。
義経鞍掛松
寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、
源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(現高松町)の里に入り、
屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
其の時の大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
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菜切地蔵
神櫛王墓南方の丘の上にある。
地蔵堂の中央正面に地蔵菩薩の石彫、右側に室町時代以後と考えられる
五輪塔の変形的なもの、左側に十一面観音の石彫を安置している。
土地の人は右側の石塔を地蔵と呼んでおり、弁慶が地蔵の背中を
まな板がわりにして大長刀で菜を切ったと伝えている。
この辺一帯の集落名を今も菜切と称している。
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長刀泉
現状は石組みの井戸跡としてあるもので、立地において「菜切地蔵」、
「瓜生が丘」の周辺に位置することから、源氏軍の陣跡に比定されている。
また、『三代物語』において、「武蔵坊弁慶屓尖刀鐓(なぎなたのいしづき)
を以って、井を穿つ、しばらくして清水湧く。云々」とあり、
弁慶の武勇とともに、海辺の陣にあって炊事用水に苦慮した様子を伝えている。
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神櫛王(かみくしおう)墓
神櫛皇子(生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「神櫛皇子」、『古事記』では「神櫛王」、
他文献では「神櫛別命」「神櫛命」「五十香彦命」とも表記される。
第12代景行天皇の皇子である。
墓は、宮内庁により香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓に治定されている。
宮内庁上の形式は上円下方墳。
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菊王丸の墓
源平合戦のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして
能登守教経の強弓に倒れました。
そのとき教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、
そうはさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。
教経は、菊王丸をあわれんでこの地に葬ったと伝えられています。
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安徳天皇社
寿永2(1183)年、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
ここは、檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、
東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、
行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
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佐藤継信の墓
継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、
平家の武将能登の守教経の強弓により、大将義経の命危ういとみて、
義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために
寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、
合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、
屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
また、墓は牟礼町王墓にも残っています。
遍路道の佐藤継信の墓
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神櫛王墓横の佐藤継信の墓・大夫黒の墓
大夫黒(たいふくろ)は、源義経が一ノ谷の戦いの鵯越の逆落しで乗馬した愛馬。
『吾妻鏡』によると、後白河院の厩にいた名馬で、源義経が賜り、
戦場へ出る度に乗馬していたのだという。
屋島の戦いで佐藤継信が討死すると、義経は供養してくれた僧へ礼として贈り、
死後は継信のそばに葬られたのだと伝えられている。
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長崎の鼻・長崎鼻砲台跡
高松市の屋島最北端、瀬戸内海に突き出した岬が長崎の鼻。
テーブル状になった典型的なメサ地形の屋島は、古代に屋嶋城(やしまのき)が築かれ、
源平合戦では平家の水軍の拠点となりました。
嘉永6年(1853年)のペリー以来、外国船の監視と防備の必要性が高まり、
讃岐国でも、幕末の文久3年(1863年)、幕府の命を受けて11代高松藩主(最後の藩主)
松平頼聰(まつだいらよりとし=将軍・徳川慶喜とは従兄弟)が
瀬戸内と高松湊の防備のため、長崎の鼻に砲台を築いています。
現在、砲台の上段部分が駐車場になっており、中段、下段の砲台部分へは下ることに。
長崎鼻台場に備えられた大砲は、二十六斤砲と十二斤砲が合計6門でした。
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屋島
屋島は、もとは高松平野から隔たれた島でした。
屋島の山頂部は平坦で、その端は讃岐岩質安山岩
(古銅輝石・普通輝石安山岩)の急崖に取り囲まれたメサです。
屋島は山頂部の平坦面が急崖によって囲まれたメサとして、
昭和 9 年に国の天然記念物に指定されました。
今日は、屋島の北嶺登山道から820mの遊鶴亭まで歩いてみました。
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屋島洞窟
屋島の北嶺に分布する層厚約 20mの火山礫凝灰岩および凝
灰質砂岩は、屋島の黒石と呼ばれ、豊島石と同じ材質のため、
江戸時代から石材として採掘されてきました。凝灰岩層の上方
には讃岐岩質安山岩が急崖をつくっているため、横穴を掘って
採掘し、その穴丁場が洞窟となって残っています。
登山開始から440mの地点に屋島洞窟がありました。
まだまだ急登が続きます。
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遊鶴亭
屋島北嶺にある展望台で、獅子の霊巌、談古嶺と並ぶ
屋島三大展望台の一つが屋島北嶺の遊鶴亭展望台です。
大正12年、香淳皇后が命名したもの。
テーブルマウンテン(メサ地形)となった屋島台地の北端に位置するため、
瀬戸内海方面の眺望が広がります。
遊鶴亭展望台からは、ぐるり320度を見渡すことが可能で、
瀬戸内海に浮かぶ島々や、源平合戦で有名な「船隠し」も
俯瞰で見ることができます。
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高松駅方面
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男木島・女木島方面
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小豆島・庵治方面
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猛暑続きで、連日35度を超えていましたが、
今日は30度前後と比較的涼しくなり活動しやすくなってきた。
後半へ続く。